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第二次世界大戦のイタリア戦線(英:Italian Campaign, 伊:Campagna d'Italia)とは、第二次世界大戦において1943年9月3日の連合軍のイタリア半島上陸から、9月8日のイタリア王国降伏を挟み、1945年5月まで続けられたイタリア本土における戦いのこと。イタリア降伏前はイタリア・ドイツの枢軸軍が連合軍と交戦していたが、イタリア降伏後はイタリア占領を行ったドイツ軍と親ドイツ派の一部イタリア軍が連合軍と交戦した。 イギリス・アメリカ軍のシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)の成功の結果、1943年7月24日、ムッソリーニは逮捕・幽閉された。新しく政権を組織したのはピエトロ・バドリオで、対外的には戦いの継続を表明していたが、連合軍のイタリア半島上陸と同時に連合軍との休戦を表明。この休戦の結果、ドイツ軍はイタリア半島全土を占領した。 またドイツ軍は幽閉されていたムッソリーニを救出し傀儡の「イタリア社会共和国」を作らせ、イタリアに増援部隊を送り連合軍との交戦を続けた。南北に長く東西に短い山がちなイタリア半島の地形を利用して、何重もの陣地線を敷き、その外貨預金 イタリア半島に展開したドイツ軍が降伏するのは終戦間際になってからだった。 連合軍は1943年8月17日にシチリア島を解放、続く9月3日にイタリア半島の先端部に上陸(ベイタウン作戦)し、9月9日にサレルノ(アヴァランチ作戦)、ターラント(スラップスティック作戦)へ上陸を行った。水面下で連合軍との降伏交渉を続けていたバドリオ政権は、連合軍の上陸と同時に休戦を表明した。ムッソリーニの逮捕から後、バドリオ政権に不審な動きがあるのを察知していたドイツ軍は、イタリア降伏によっても浮き足立つことなく直ちに部隊を展開させイタリア軍を武装解除、主要地点の占領に入った。イタリア北部はロンメル元帥が、イタリア南部はケッセルリンク元帥が指揮をとり9月下旬にはイタリア半島をほぼ占領した。 連合軍はイタリア半島への上陸と同時にローマへ空挺降下してイタリア軍と共同でローマを制圧(南部に展開するドイツ軍の連絡線を遮断)するジャイアント作戦を計画、米82空挺師団のテイラー准将をローマに送り込んでバドリオと交渉にあたったが、兵員や武器弾薬の不足、ドイツ軍の展開などを理由にイタリア側の協力が得られずローマへの降下は中止となった。 バドリオの政府は、休戦を表明するやただちにイタリア半島南部のブリンディシに脱出した。この後降伏文書に調印(9月)、連合軍の一員としてドイツに宣戦布告を行う(10月)。一方、9月に逮捕され幽閉されていたムッソリーニはスコルツェニー率いるドイツ軍部隊によって救出され、ドイツの後押しでイタリア北部にイタリア社会共和国(サロ共和国、サロ政権)を樹立した。しかしサロ共和国はドイツの傀儡でしかなく、何の権力もない名前だけの存在であった。 イタリア半島南部からIPO してくる連合軍に対し、ケッセルリンク元帥率いるドイツ軍は、「ラインハルト線」「ヒトラー線」「グフタフ線」「カイザー線」という4重もの防衛線を敷き、抵抗を続けた。イタリア半島は山がちであるため防御側に有利で、戦車を効果的に使えない連合軍の進撃は非常にゆっくりとしたものであった。 しかしその背後ではパルチザンが徐々に活動を広げ、補給の妨害などを始めていた。 年が明けて1944年1月上旬、連合軍はラーピド川・ガリリャーノ川沿いのグスタフ線に達し、アンツィオでの上陸作戦と呼応して、ローマへの北上の障害となるカッシーノ付近の枢軸軍の制圧を目指した(モンテ・カッシーノの戦い)。 1月17日連合軍は渡河を開始、22日にアンツィオで上陸作戦(シングル作戦)を開始した。カッシーノでの渡河は撃退されたものの、上陸作戦のほうは枢軸軍に備えが無く成功した。 ここで上陸部隊の指揮官米第6軍団長ルーカスは、拙速なローマへの進撃を避け、当面は現状の上陸橋頭堡を維持し十分な戦力を集めることに専念するよう主張した。連合軍の動きが止まったのを見たケッセルリングは、アンツィオに増派し2月中旬反撃を開始、連合軍の橋頭堡は分断されてしまった。 この失敗と、すでにノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)・南フランス上陸作戦(アンヴィル作戦)の為替 に入っていたため、連合軍はこれ以上のイタリアでの上陸作戦を断念、米第5軍がグスタフ線で攻勢をかけることにした。 この頃、カッシーノの枢軸軍は、川沿いからは後退し、山頂の要塞化されたベネディクト会修道院とその背後の尾根伝いに陣地を敷いていた。連合軍は2月から3月にかけて、予備の自由フランス軍・自由ポーランド軍も投入し、川沿いから直に修道院へ攻めあがるルートで、激しい爆撃の中4度攻撃をかけたが、ことごとく失敗。連合軍はさらに戦力を整えるため攻勢を中断、5月まで戦線は膠着した。 5月連合軍は数箇所で同時に行動を開始、17日ポーランド軍が東から尾根のドイツ軍陣地に攻撃を開始、その間自由フランス軍が修道院の西から回り込みグスタフ線の裏の小陣地線まで進撃。23日にはアンツィオでも攻撃を開始、枢軸軍の陣地線は完全に崩壊し、カッシーノ=アンツィオ間で包囲される危機的状況であったが、米第5軍が南下せず北のローマを目指したため、枢軸軍は抵抗しつつ中部イタリアの陣地線まで後退した。 ゴシック線に向かうアメリカ第370歩兵連隊1944年5月、カイザー線が突破され、6月4日イタリア首都ローマが陥落したが、ドイツ軍はイタリア中部に「ヴィテルボ線」「トラジメーノ線」「アルノ線」「ゴシック線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続けた。しかし、アルノ線まで連合軍の突破を許し、8月11日フィレンツェが陥落した。だが、連合軍はノルマンディー上陸作戦のため一時攻撃を中止し、9月以降ゴシック線で両軍のにらみ合いが続いた。 1945年1月、連合軍は攻撃を しゴシック線を突破したが、ドイツ軍はイタリア北部に「ジンギス・カン線」「ポー線」「ヴェネツィア線」「アルビーノ線」という4重の防衛戦を敷き直し抵抗を続けた。ただ、既に背後のフランスプロヴァンス地方は陥落しており、抵抗は限定的なものであった。ポー川沿いのポー線まで後退すると、連合軍のミラノ・トリノ方面への突破を許し、連合軍はフランス南部へ進撃した。 連合軍の進撃と、各地におけるパルチザンの蜂起によりイタリア社会共和国は事実上瓦解。ムッソリーニはドイツ軍の保護の下でイタリアからの脱出を図ったが、4月28日に愛人のクラレッタ・ペタッチと共にパルチザンに捕らえられ、即刻処刑されてその遺体が民衆の前にさらされた。ヒトラー自殺のわずか二日前であった。 アルプス山脈まで追い詰められていたドイツイタリア方面軍司令官フィーティングホフは4月29日連合軍に休戦を申し込み、5月2日に降伏、これでイタリアの戦いが終結した。 大陸打通作戦(たいりくだつうさくせん)は、1944年4月17日から12月10日にかけて行われた太平洋戦争中の中国戦線で行われた作戦。正式名称(日本側作戦名)は一号作戦。中国側呼称は豫湘桂会戦。前半の京漢作戦と後半の湘桂作戦に大きく分けられる。インパール作戦とほぼ同時期に行われた。 本作戦は服部卓四郎が企画立案し敢行したもので、華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保し、南方資源地帯と日本本土を陸上交通路で結び、また米空軍の長距離爆撃機B-29基地に使用されると予想される航空基地の占領、並びに重慶軍の撃破と継戦意思の破砕を企図して行われた。総兵力40万、作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦であった。作戦目的地の占領には成功し、地図上では朝鮮半島の釜山から、泰緬鉄道を経てビルマのラングーンまで鉄道で往復できることになったが、広大な大陸を点と線で結んだに過ぎず、京漢鉄道は中国軍のゲリラ的妨害活動を排除して運行するには長大過ぎ、まともに機能しなかった。またB- 29基地の使用阻止も、マリアナ諸島が陥落したことで無意味となり、華北では八路軍の攻勢に苦しめられる事となる。