TONE
一方、ジェイムズ川小艦隊は、戦闘に参加するべくモンロー砦を出て座礁していた(※?)ミネソタ (USS Minnesota)に注意を転じていた。バージニアは、コングレスの降伏に対処した後、損傷にも関わらずジェイムズ川小艦隊と合流した。なぜならばその深い吃水のため、バージニアは深刻と言えるほどの損傷を受けることがなく、そして暗闇が砲撃を効果的に行うことを妨げていたからである(※?)。バージニアは翌日に再来して北軍の艦隊を全滅させることを目論みつつ引き揚げた。夜の間は南軍が制海権を持つ水域に退いたのである。 この一日は、まさしくバージニアの独擅場であった。とは言え損失がないわけではなかった。衝角の一部がもぎ取られて、傷ついたカンバーランドの横腹に刺さったまま失われた。バージニアが沿岸砲台から撃たれている間、ブキャナン艦長はマスケット弾によって大腿骨を折った。彼はこの負傷によりケイツビー・R・ジョーンズ副長へと艦の指揮権を移譲することを余儀なくされた。ブキャナンの脚は後に切断された。 連合国海軍長官スティーヴン・マロリーは連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスへの手紙で、この戦闘のことを以下のように書いている。 艦隊の士官たちと兵たちの行いは……彼ら自身と連合国海軍に不滅の栄光をもたらしました。報告はとても興味深いもので、その詳細は必ずや熱情を掻き立て、我が軍の勇敢な水兵たちの士気を高めるでしょう。またこの報告はバージニアがかつて水に浮かんだいかなる船とも全く異なり、造船学上の新機軸だったことを思い出させるでしょう。本艦の最も重い砲は火器中の新機軸に等しいこと……その動力および操舵特性は未だかつて試みられた事がなく、将兵は船にも互いにもほとんど初対面だったこと……これら全ての不利な要素の下で、意思力の権化たる士官ブキャナンの活発な勇気および完全無欠な玄人の手腕、そして彼の部下たちの協力は、海戦史上で最もめざましい勝利を達成したのです。 合衆国海軍にとっては恐ろしい、そして士気を挫かれる一日だった。夜遅くに、ジョン・L・ウォーデン大尉が指揮をとるモニターがハンプトン・ローズに到着した。こちらの装甲艦は味方の艦隊を保護し、バージニアが北部の都市を脅かすのを防ぐために急がされて来たのだった。 「戦いの趨勢は、新造艦モニターのかつて無い労苦と時を得た到着にかかっている」ジョン・A・ダールグレンはそう評している。 翌朝、すなわち1862年3月9日、困難な修理の後で、バージニアは座礁中のミネソタにとどめを刺すべく再出撃した。その旅程は新たに到着したモニター(後に南軍艦の指揮官によって「チーズ箱を載せた筏のような」と書き記される)によって阻止された。 戦闘が1時間、主に至近距離で行われたが決着はつかなかった。小型で敏捷なモニターはバージニアを翻弄できた。しかしどちらの艦も相手に致命傷を与えることができなかったのである。最終的に、「戦場」を占有したモニターおよび合衆国艦隊の残りをあとにしてバージニアが退却した。どちらの側も勝利を宣言した。戦術的な戦いは決着がつかなかったとは言え、戦略的にはバージニアは北軍の封鎖を除去できなかったし、戦略的バランスは北軍優位のまま変わらなかった。 二隻の艦がどちらも機能不全だったにしろ、モニターの砲はバージニアの砲と比べてかなり強力であった。バージニアが辛うじてモニターの装甲をへこませただけなのに対して、モニターはバージニアの装甲板に数ヶ所のひびを入れた。攻撃の際、モニターの砲術員は主に徹甲弾を使ってバージニアの上部構造を狙った。設計者エリクソンは、それを聞いた時に激怒して叫んだ。もし彼らが榴弾を使い吃水線を狙ったならば、バージニアは容易に沈んでいただろうに、と。(Ken Burnsのドキュメンタリー"The Civil War, episode 2: A Very Boody Affair: 1862"より引用。) 装甲艦同士の熾烈な交戦(Currier and Ives画) 続く2ヶ月の間、モニターを戦闘に引きずり出すべくバージニアは数回の単艦出撃を敢行した。たいていの日、バージニアはクレイニー島 (Craney Island) かシーウェルズ・ポイントに向けてエリザベス川をゆっくりと動力航行で下った。リサイクルショップ 神戸 の向こうには、南軍の船をモンロー砦の方へおびき出そうと、モニターおよび莫大な数の艦船が待ち受けていた(※?)。 北軍の計画はバージニアを都合のよい水域に引きつけることであった。モニターはどうしても避けようがない場合を除いて戦いに参加しないよう、大統領命令を受けていた。合衆国海軍省 (The Union Navy Department) はバージニアを倒すという至急の目的のため、数隻の大型蒸気船を賃借していた。バージニアが海に乗り出してきたところを、水面ぎりぎりの甲板の両端に大型蒸気船で乗り上げ、そして望むらくは、そのまま沈めてやる。そういう計画であった。(※?) バージニアはモニターを戦いに誘い出すために二度ハンプトン・ローズ侵入を敢行したが、大統領命令のためモニターは挑戦には応じなかった。 予期されていた海戦は現実化しなかった。モニターとバージニアの対決は二度と起こらなかった。 この戦闘に関する海戦思想上の広範な印象が、ヴェラ・クルーズから発せられた、USSポトマックのレヴィン・M・パウエル艦長の書簡によって次のようにまとめられた(※?)。 モニターとメリマックのカタログギフト に関する報せは、同盟した(※?)艦隊の専門家たちの中で、甚大極まるセンセーションを巻き起こした。彼らは、言葉と同じだけの沈黙によって事実を認識した。海戦という事象が今や別のものに見えることを。戦列の立派なフリゲートや艦船……浮かんでいるものであれば何でも半時間で破壊できると一ト月前には考えられていた……が、全くもってその図体に引き合わないものであることを。そして彼らの自信は、これらの驚嘆すべき事実を前にして一度は雲霧消散したのだった」と。そしてダールグレン大佐はこう表現した。「今や鉄の支配がやって来た。そして鎧われた艦艇が木造の船に取って代わるだろう。 戦闘後のモニターハンプトン・ローズ海戦の後では、どちらの艦も戦争で大した役を果たすことはなく、1862年まで生き残った。 ハンプトン・ローズを囲む土地での戦局は、南軍にノーフォーク地区を見捨てることを強いた。1862年5月10日、ノーフォークとポーツマスから撤退するとき、バージニアの士官と兵は2-3の選択とともに残された。連合国の首都・バージニア州リッチモンドまでジェイムズ川を遡航するにはバージニアは吃水が深すぎることを、そしてこの退却を確実に予期しているモンロー砦から派遣されて待ち受ける北軍の艦隊をやり過ごし、ハンプトン・ローズをうまく脱出するチャンスがほとんどないことを、ジョサイア・タットナル司令官はよく理解していた。 鹵獲されるのを防ぐため、1862年5月11日の早朝、タットナルはバージニアをクレイニー島へ擱座させて火を放つよう命令した。約1時間に渡って猛烈に燃えた後、炎は弾薬庫に達し、艦は大爆発とともに破壊された。 1876年5月30日、戦後10年以上たって、バージニアの廃船体が引き揚げられてノーフォーク海軍造船所(ゴスポート造船所が合衆国による奪還後に改称)に運び戻され、解体された。 装甲板、錨、砲を含むバージニアの一部分は、ポーツマスのノーフォーク海軍造船所およびニューポートニューズの海員博物館 (Mariners' Museum) に展示されている。バージニアの錨はリッチモンドの南部連合博物館 (Museum of the Confederacy) の正面の芝生に鎮座している。 モニターはモニター艦の原型となった。河川用モニター艦を含む多数のヒューマン 艦が作られ、ジェイムズ川とミシシッピ川において南北戦争の鍵となる役割を演じた。しかしながら、その設計が河川での戦いに非常によく適合していることは証明されたが、低い船体と重い砲塔は荒い海での航行性能を貧弱にする原因となった。1862年10月、ノースカロライナ州ハッテラス岬沖で元祖モニターを早い最期に導いたのは、おそらくこの特徴である。1973年、残骸が見つかっている。 有名なハンプトン・ローズ海戦で南軍が使った軍艦の名前は、混乱を招き続けている。この艦は南軍によって再建され「バージニア」として再就役させられたのだが、北軍はこの南軍装甲艦をむしろ「メリマック」という元の名前で呼ぶことを好んだ。北軍が南北戦争に勝ったためだろうが、アメリカ合衆国の歴史はふつう北部視点で記録されている。しかし、少し経って、一般に使われる名前が語尾の"-k"を落とすことにより短縮され、だからして "the Battle of the Monitor and the Merrimac" となった。どちらの綴りもハンプトン・ローズ地方でいまだに使われている。 この南軍装甲艦のために鉄を産出した場所にほど近いモントゴメリー郡にある小さな地区(国勢調査指定地域)が、今ではバージニア州メリマック (Merrimac, Virginia) として知られている。そこで採掘されて装甲艦を鎧った鉄が、ポーツマスのノーフォーク海軍造船所に展示されている。他の破片はニューポートニューズの海員博物館とリッチモンドの南部連合博物館(そこには長年にわたって錨が置いてある)に展示されている。 ジェームズタウン博覧会は数ある世界博の1つで、20世紀序盤の合衆国では有名な博覧会であった。それはノーフォークに近いハンプトン・ローズのシーウェルズ・ポイントで1907年4月26日から12月1日まで催された。ジェームズタウン入リサイクルトナー が祝われた。 最も知られたアトラクションの1つに、ハンプトン・ローズ海戦(40年前、博覧会の開催地から見える範囲内で勃発した)の再現があった。模造メリマック=モニターの外観はかなり軍艦らしく見えた……中身は海戦の様子をぐるりと並べた展示室になっていたのだが。 1992年、バージニア州の陸運局は4.6マイル(7.4km)のモニター・メリマック記念橋 (Monitor-Merrimac Memorial Bridge-Tunnel) を完成させた。州間道路664を通すこの重要な連絡路は、ハンプトン・ローズの、有名な「装甲艦の激突」が起きた場所のすぐ近くを横切っている。長さ4800フィート(1460m)で4車線のトンネル、二つの人工portal island、そして3.2マイル(5.1km)の橋脚を含むこの橋の建設には400万ドルが投じられた。北へ行く際には、歴史的海戦の舞台が絶好の眺めである。 大陸棚で人知れず111年間の眠りをむさぼったのち、モニターの残骸は1973年に科学者のチームによって探し出された。船の残りはハッテラス岬の16マイル(26km)沖合、深さ240フィート(73.2m)の比較的平坦な海底の砂地で見つかった。モニターの船体は砲塔が下、甲板が上、つまり上下逆さまに横たわっていた。1987年、その場所は難破事故としては初めてアメリカ国定歴史建造物に指定された。 モニターの状態悪化のため、残っている重要な人工物と船本体をすぐに回収することは不可能であった。それ以来、新技術を用いて、何百もの壊れやすい人工物(砲塔およびそれに付随する二門のダールグレン砲、錨一つ、蒸気機関、スクリュー)が回収され、注意深くハンプトン・ローズに運び戻されている。 USSモニター・センターはニューポート・ニューズのMariners' Museum(そこには元々、バージニア由来の物もあり、モニターの物は後から付け加わった)では人気がある。