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- ナヴァリノの海戦(Battle of Navarino, Navarin Deniz Sava??)はギリシャ独立戦争中に行われた戦いの一つ。オスマン帝国艦隊とイギリス・フランス・ロシア連合艦隊のギリシアナヴァリノ湾での海戦で、帆走主力艦同士の最後の戦いとなった。 ナヴァリノ湾において停泊中のオスマンの艦隊に対し、交渉を行うために三国連合艦隊がオスマン艦隊の近辺に停泊し、使者を派遣したが銃撃を受けたためにただちに応戦。大規模な海戦が勃発した。非常に近接した距離での射ち合いでオスマン艦隊は碇を下ろして身動きがとれなくなっていたことや、装備が劣っていたことなどから開戦4時間でほとんどの艦が戦闘不能に陥り、戦闘は三国連合艦隊の勝利に終わった。 アラモの戦い(アラモのたたかい, Battle of the Alamo)は、テキサス独立戦争中の1836年2月23日 - 3月6日の13日間にメキシコ共和国軍とテクシャン反乱軍の間で行われた戦闘。テキサス側の拠点とされ戦闘の舞台となったアラモ伝道所はテキサス州サンアントニオ中心街の一角に遺跡がある。 もともと、アラモはスペインの布教所として1718年にサン・アントニオ・デ・ベハル(後のテキサス州サンアントニオ)に建設された。19世紀初頭にスペイン軍の騎兵隊が駐屯し、その要塞を「アラモ」と呼んだ。メキシコからの独立を画策していたアングロサクソン系テキサス住民は、サンアントニオ市を占領した。 コス将軍の敗北でメキシコ軍はテハスでの拠点がなくなっていた。これに対しメキシコは翌年、大統領兼将軍であるサンタ・アナが反乱軍の鎮圧を決定した。メキシコの戦争相ホセ・マリア・トルネルとビチェンテ・フィリソラ将軍は1814年以来のテハス遠征で実績のある船での進軍を提案した。しかしサンタ・アナはその案では時間がかかり、その間に敵が米国からの援助を受けるとしてこれを拒否した。 サンタ・アナは1836年始めにサン・ルイス・ポトシで、概算で6,100人の兵士と20門の大砲を集め、テハスに向けコアウイラのサルティジョまで進んだ。軍勢は悪天候の中リオ・グランデを渡り、吹雪の山の小道を進んだ。サン・アントニオ・デ・ベハルは彼にとって中間的な目標の一つだった。彼の最終目標はテキサス政府を捕え、反乱州に対し中央の支配、或はメキシコの「中道」政権の立直しを図ることだった。彼はこれ以前1835年にサカテカス州の反乱を抑えていた。 サンタ・アナとその軍勢は2月23日にサン・アントニオ・デ・ベハルに到着した。歩兵大隊を温存するため、それは歩兵と騎兵の混成部隊だった。彼らはイギリス製のベーカー、時代遅れで射程は短いが威力のあるタワー・マスケット、Mark III、ブラウン・ベスマスケットなどを装備していた。メキシコ人の軍人の背丈の平均は 155cm (5 ft 1 in) で、その多くが戦闘経験のない新米の徴集兵だった。メキシコの軍隊は個々の射撃の技量に劣ったが、しかし彼らはよく標的を打ち抜いた。初期の装備では、4門の7インチ (178mm) 曲射砲、7門の4ポンド (1.8kg) 砲、4門の6ポンド (2.7kg) 砲、4門の8ポンド (3.6kg) 砲と2門の12ポンド (5kg) 砲を備えていた。 ビチェンテ・フィリソラ(イタリア)、アントニオ・ガオナ(キューバ)など、一部のメキシコ軍指揮官は熟練した傭兵だった。またサンタ・アナもメキシコ独立戦争で経験があった。 サンタ・アナは自ら2000の軍勢を率いて進軍、サンアントニオ市を包囲した。 当時、アラモをFX することになっていたのはジェームズ・ボウイ大佐である。また、騎兵隊中佐に就任したばかりの若きウィリアム・トラヴィスも1836年1月に州政府から志願兵と共に派遣された。トラヴィスは2月3日にサン・アントニオに30人と到着した。トラヴィスは家族の病気のために離れていて12日後に戻る約束をしていたジェームズ・C・ネイル大佐を飛び越えて正式な指揮官に任じられ、テクシャン軍を指揮した。 ジェームズ・ボウイのボウイナイフの名声などから、正規の軍人でない志願兵も砦を守るために集まった。ボウイとトラヴィスは作戦と指揮を巡って度々口論した。指揮を執っていたボウイが2月27日結核のため病床につき、指揮権をトラヴィスに全権委任した。アラモには、約200名程度の軍勢しかいなかった為、トラヴィスは成立したてのテキサス暫定政府に再三援軍を求めたが、テキサス軍将軍サミュエル・ヒューストンは兵の召集を待っていたため援軍の派遣は結果的には志願して行った30名程度だけだった。 米国は当時アラモ砦の戦いをアメリカ移民のメキシコへの反抗とみていたが、実際に多くのメキシコ系テキサス人(テハノ)も反乱側を支持していた。この闘争を1776年のアメリカ独立戦争と同じ概念でみるものも多かった。テハノはメキシコに1824年のメキシコ憲法で表現された州権を支持する緩やかな中央政府を望んでいた。最後の突撃の前に伝令として送り出されたフアン・ネポムセノ・セギン大尉(後に大佐)はテハノのアラモの戦闘員の1人だった。 テキサス遠方の各地からも多くの守備兵が集まった。最も若いのは16歳のガルバ・フィキュアで最も老いたのは57歳のゴードン・C・ジェニングスだった。28の国と州から男が集まった。民衆の間で絶大な人気を誇っていたテネシー州出身の元下院議員デイヴィッド・クロケットも防衛に参加した。12人の「テネシーの志願兵」は2月8日にアラモに到着した。 「ニューオリンズグレイズ」という別の集団は歩兵として革命で戦うためにその都市から来た。グレイズを包括する2つの中隊が12月にベハルの籠城戦に参加した。グレイズの大部分はマタモロスへ都市を略奪する遠征のため、メキシコと戦争する約束を残し、サン・アントニオ・デ・ベハルを去った。しかし約24人はアラモに残った。 トラヴィス中佐は戦いの前に伝令を急派したように3月3日にも戦況をテキサス暫定政府に先物取引 し、援助を要請することができた。しかし、サム・ヒューストンのテキサス陸軍はメキシコの陸軍と戦いながら持ち場を離れられる程の戦力も持ち合わせなかった。テキサス暫定政府はまたメンバーの間の乱闘により混乱していた。トラヴィスは助けを求めてジェームス・ボーナムを含む数人の伝令をジェームス・ファニン大佐にも送った。ファニンは100マイル (160km) もアラモの南東のゴリアドの450人以上のテキサス軍の指揮官で、2月28日に320人の男と大砲でアラモに組織的でない救援の行軍を試みたが、不十分な輸送のため救援軍を中止した。ファニンと彼の配下の大部分は降伏後にメキシコ軍によって虐殺された(「ゴリアドの虐殺」)。 3月1日の午前1時頃に32人のテクシャンがゴンザレスの町からジョージ・キンベル大尉とジョン・W・スミスと共に到着しメキシコ人の戦線を潜ってアラモの守備隊に合流した。彼らはトラヴィスの援軍要請に対する唯一の反応だった。この32人は「不死身の32人」として知られる。32人の1人アイザック・ミルサプスによって書かれたとされる手紙がアラモの籠城戦の前夜の様子を克明に記している。この手紙がほぼ偽物に違いないとする議論が歴史家の間で存在する。 攻撃に参加したメキシコ兵は4,5千人いたと報告されているが、包囲と最後の襲撃に参加したのは1,400人から1,600人だけだった。サン・ルイス・ポトシでの当初の兵力は6,500人だったが病気や脱走で兵が減少した。メキシコ軍の攻城戦は科学的、職業的でナポレオン流に指揮されていた。 輪縄がアラモの周りに締められたためトラヴィス中佐の最後の発信はテクシャン精神の激しい例を含むものだっだ。彼は「敵は私の降伏を要求した。私はただ一発の大砲で彼らの要求に答えた。私は決して降伏しない。」と書いた。 包囲開始から13日目の3月6日の早朝、メキシコ軍の一斉攻撃が開始された。メキシコ軍は隊を4つの部隊と捕獲、追跡、保安部隊に分けアラモを05:00から攻撃した。マルティン・ペルフェクト・コスの率いた300人 - 400人の最初の部隊はアラモの北西の角に向かって進んだ。フランシスコ・デュゲ大佐の指揮する380人が2番隊。第3部隊はホセ・マリア・ロメロ大佐の率いる400人の軍人から成った。4番目はホアン・モラレス大佐によって指揮され100人のカサドレス(軽歩兵)から成った。アラモの壁に達する前に攻撃部隊は200 - 300ヤード (200 - 300m) の広々とした地面をカバーする必要があった。テキサス人の逃亡や援軍の侵入などの試みを防ぐために、サンタ・アナはラミレス・イ・セスマ准将の配下に350騎の騎兵を周囲の田園を警戒させるよう配置した。