SUPPLY
ロスバッハの戦い(Schlacht von Rosbach)は、七年戦争中の戦闘。1757年11月5日に、フリードリヒ大王が指揮する約22,000のプロイセン軍と、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公子ヨーゼフおよびスービーズ公シャルル・ド・ロアンが指揮する約55,000のオーストリア、ザクセン公国、フランス連合軍との戦いである。 連合軍はプロイセン軍の側面を攻撃するため縦隊でFX していたが、村の建物の屋上から敵の動きを監視していたプロイセン軍大尉に勘付かれてしまう(フリードリヒ大王はそれまで、敵が撤退するものと勘違いしていた)。大王は即座に自軍を進軍させ、ザイデリッツ将軍率いるプロイセン軍の重騎兵が連合軍の縦隊先頭に対して奇襲攻撃を敢行すると、行軍中の連合軍は大混乱に陥った。 さらにその後、プロイセン歩兵横隊による総攻撃が行われ、高地からの十字砲火は敵をさらなる混乱に陥れた。スービーズ公は自身の歩兵に何度も銃剣突撃を敢行させたが、それはプロイセン軍の圧倒的な火力を前にして悉く失敗し、後続部隊の行動を阻害するだけに終わった。連合軍の殆どの部隊は隊列を組むことすら出来ずに壊走し、戦いはプロイセン軍の劇的な勝利に終わった。 この戦闘によってフリードリヒ大王は名声を欲しいままにし、敵国内ですら賞賛の声が聞かれた。戦争に消極的だったイギリスもこの勝利に反応し、プロイセンへの財政援助を決定する。その一方、フランス人であり大王の友人であるヴォルテールは「百年戦争中の数々の敗北も、これほど屈辱的では無かった」と嘆いている。 ロイテンの戦い(Schlacht von Leuthen)は、七年戦争中の会戦。フリードリヒ大王指揮のプロイセン軍がオーストリア軍を撃破した。先のロスバッハの戦いとあわせて軍事史上注目される戦い。 1757年11月5日のロスバッハの戦いにおいて西方からの脅威を減じさせたプロイセン軍は、オーストリア軍を撃破するため間髪いれずシュレージエンに移動した。そのころシュレージェンでは、ダウンの後見の下に皇弟カール公子率いるオーストリア軍が、シュレージエン防衛を任されていたブラウンシュヴァイク=ベーヴァン公アウグスト・ヴィルヘルム(王妃エリーザベト・クリスティーネの従兄弟)指揮のプロイセン軍を撃破し、ブレスラウをFX 取引 した。そのすぐ後にブレスラウ近郊に到着した大王軍は、ベーヴァン公の残存部隊を収容の後、オーストリア軍に決戦を求めた。 ダウンは、この戦争での彼の戦法が常にそうだったように、丘の上に陣取って相手の攻撃を待つことを主張した。しかし倍近い兵力を有しながら受け身に回ることをカールは拒否し、大王に応じて決戦のためブレスラウ西方ロイテンに進出した。ブレスラウに向かう街道が東西に走っており、オーストリア軍はこれを分断するように南北方向に細長く布陣した。プロイセン軍もこれに合わせるように西から戦場に進入したが、これは陽動であった。大王はここで有名な斜行戦術を行使した。 プロイセン軍は、オーストリア軍の展開した歩兵の横隊に正面から攻撃すると見せかけながら、実はオーストリア軍左翼側面、すなわち南側に回り込もうとしていた。まずプロイセン騎兵隊がオーストリア軍左翼騎兵隊を後退させ、さらに後方に回り込んだ。次いで、見事に斜行を成功させた歩兵隊がオーストリア軍側面に一斉射撃を繰り返しながら前進し、さらには銃剣突撃を敢行した。ダウンは急いで自軍の戦列を回転させて南に正面を向けようとしたが、事前に訓練を受けていないオーストリア兵にそのようなことをさせるのは無理があった。今や後方となった右翼の騎兵隊を南西に動かしてプロイセン左翼側面の攻撃を図ったが、これもプロイセン左翼部隊によって阻止された。かつての戦列中央部分までがプロイセン軍に崩されるに及んで、オーストリア軍は敗走した。 オーストリアFX はブレスラウに退いた後、メーレンに退却し、プロイセン軍は北のロシア軍を気にしつつ、メーレンに進出してさらなる打撃をオーストリア軍に与えようとした。しかし、カールが退任して正式に指揮官となったダウンは、徹底的に決戦を忌避して大王に付け入る隙を与えなかった。そのうちにロシア軍がポンメルン深く侵入してきたため、大王は北転してこれの撃破に向かった。 この戦い、というよりもロスバッハの戦いから合わせた一連の機動は、後の軍人たちに高く評価されている。ナポレオンはこれを「模範的な動員と決断」と讃えた。 ホワイト・プレインズの戦い(英: Battle Of White Plains)は、アメリカ独立戦争の戦いの一つ。 ロングアイランドの戦いで大敗を喫したジョージ・ワシントン将軍の率いる大陸軍が、ウィリアム・ハウ将軍の率いるイギリス軍と大敗後、初めての大規模野戦対峙を行った。 独立戦争時は、ホワイト・プレインズ (White Plains, 現ニューヨーク州) は湿地帯であり、主な戦闘は川沿いの丘の麓で行われた。 太平洋戦争時の米国海軍護衛空母であるホワイト・プレインズ (CVE-66) はこの戦いにちなむ。 ジョージ・ワシントンの司令部として使われた家ロングアイランドの戦い(1776年8月22日-30日)で大陸軍を大いに破ったイギリス軍は、マンハッタン島に進攻した(1776年9月15日)。同日中にイギリス軍はニューヨーク市を占領、大陸軍はマンハッタン島北に逃れた。 マンハッタン島北部でのハーレム・ハイツの戦い(Battle of Harlem Heights 1776年9月16日)で、マンハッタン島北端のワシントン砦の陣地(ホワイト・プレインズの戦い後、1776年11月16日に陥落)を攻めあぐねたイギリス軍が、大陸軍の後背を突いて野戦で決着をつけるためにスログス・ネック(Throgs Neck)(現スログス・ネック橋近辺)に10月12日に上陸し、北上して現在のスカースデイル(Scarsdale)からホワイト・プレインズの一帯でワシントン率いる主力と対峙した。 なお、北上作戦開始直前に現ニューヨーク市ペルハム・ベイ・パーク(Pelham Bay Park)付近に上陸したイギリス軍部隊と大陸軍の小競り合いであるペルハムの戦い(Battle of Pelham)、又はペルズ・ポイントの戦い(Battle of Pell's Point)と呼ばれる戦闘が、1776年の10月18日に起きた。この戦いは前哨戦であるが、イギリス軍の上陸を察知したワシントンは既に本隊を内陸に退却させており、双方の本隊は参加せず、イギリス軍部隊と大陸軍守備隊との間のみの戦闘となった為、ホワイト・プレインズの戦いとは、別の戦闘として数えられる事が多い(下記の犠牲者数も、ペルハムの戦いの数字は含まれていない) 本格的な戦闘は、大陸軍の陣地の一つであるチャタートン・ヒル(Chatterton Hill)の陣地(ワシントンの本陣は目と鼻の先である川を挟んだ隣の丘の麓にあったジェイコブ・パーディ・ハウス Jacob Purdy House)で1776年10月28日に行われ、戦闘後に大陸軍はチャタートン・ヒルの陣地を撤退した。 11月に入ると、大陸軍は北にあるノース・キャッスル(North Castle)にまで撤退したが、イギリス軍は援軍と補給待ちのため追えず、マンハッタンに撤退した。 戦術的には、ブロンクス川の南側に位置するチャタートン・ヒルの陣地を奪ったイギリス軍の勝利とされる。 しかしながら戦死/負傷者の単純計算では、イギリス軍の犠牲の方が多いという数少ない戦いでもある。 戦略的な評価は分かれる。 当初の目的であるワシントン砦は11月16日に孤立して陥落し、イギリス軍のマンハッタン島及びニューヨーク市の戦時支配が固まったため、短期戦略的な観点ではイギリス軍の勝利と言える。 ただし、双方あわせて30,000を超える主力軍同士の対峙でありながら大陸軍側に決戦を強いる事ができず、ホワイト・プレインズを見下ろすブロンクス川南側の丘の占拠だけでイギリス軍の作戦が終わったことは、大陸軍側のニューヨーク市を除くニューヨーク州の支配を固める事となった。また、ニューイングランドに通じる道を実効支配できなかったため、陸路よりイギリス軍がニューイングランドに進撃する事はできなくなった。 これによりジョージ・ワシントンは、11,000の兵をニューヨーク市の北郊外に残し、自らは2,500の兵を率いてニュージャージー州に転戦する事になる。 米陸軍士官学校としても有名なウェストポイント(West Point) 要塞は、この時期にイギリス軍の陸軍及び海軍の北上を阻止する拠点として強化された。 翌1777年のサラトガの戦いに依って、カナダからの陸路の侵攻の道も絶たれると植民地諸州をニューヨークで分断するイギリス軍当初の作戦は完全に不可能な物となった。 また、後にホワイト・プレインズが郡都となるウエストチェスター郡は、パリ条約 (1783年) までイギリス軍と大陸軍の勢力圏の緩衝地帯として存在した。 クナシリ・メナシの戦い(くなしりめなしのたたかい)とは、1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。 松前藩の商人・飛騨屋の商取引の横暴さに不満を持ったクナシリ(国後島)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人数十人を殺害した。蜂起をよびかけた中でメナシ(現在の目梨郡羅臼町、標津町周辺)のアイヌがこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、蜂起の中心となったアイヌを処刑した。松前藩は、鎮定直後に交易船を派遣し、飛騨屋の各場所を直営にし、その支配を阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政3〜4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の寛政4年のことである。 北見方面のアイヌに対する日本人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのはこの戦いの後である。支配は苛烈であり、松浦武四郎によると、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になった。また、人妻は会所で番人達の妾にされた。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかった。その結果寛政年間には2000余であった人口が、幕末には半減していたという。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年に955人いたアイヌ人口は、明治24年には381人にまで減った。 一方、この戦いの頃、すでに北方からロシアが南進しており、日本(江戸幕府)は対抗して1784年(天明4)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6)に千島列島を最上徳内に探検させていた。 事件から10年を経た1799年(寛政11)、東蝦夷地は幕府直轄領となった。松前・西蝦夷地も1807年(文化4)に直轄領となり、蝦夷地全域が幕府の直轄領になった。