- SUGARCANE
- モルヴィッツの戦い(Schlacht bei Mollwitz)はオーストリア継承戦争初期にプロイセンとオーストリアとの間で行われた会戦。この戦いでプロイセンがオーストリアを破ったことで、プロイセンが列強の地位に上ったことを諸外国に印象付けた。 戦争勃発後、当時としては異例の冬季行軍でシュレージェンに進軍したプロイセン軍は、積雪と疫病に悩みつつも順調に進撃し、41年の年明け早々にはブレスラウに入った。シュレージェンの住民はプロテスタントが多く、積極的にプロイセン軍に協力した。無血開城したブレスラウでは喜んだ市民が塔や門に飾られたハプスブルクの双頭の鷲の紋章から片方の頭をもぎ取って、大王が到着すると歓迎の祝宴が開かれたほどである。オーストリア守備隊の抵抗は微弱であり、冬の終わる前にはいくつかの要塞を残してシュレージェン主要部はプロイセンの制圧下となった。 一方オーストリアは3月、メーレンに整体 学校 させたナイペルク伯爵指揮の軍をベーメンからシュレージェンに入れて反撃を開始する。3月いっぱいをかけて、オーストリア軍はナイセからブリークに到って各所の要塞を救出し、そこからブレスラウを目指した。その目的は、占領のために分散されたプロイセン軍を東西に分断することにあった。大王はこれに対応し、要塞攻略にかかっていた兵をまとめてナイペルクを会戦で撃破しようとした。積雪と泥濘のために両軍とも機動が迅速でなく、4月10日、プロイセン軍はブリークに近いモルヴィッツで宿営していたオーストリア軍に決戦を挑んだ。両軍の兵力はほぼ同数。 プロイセン軍はこのとき、大王がまだ軍事経験が浅いので、クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン元帥が実質的な指揮を執った。大王が断固たる決戦の意図を持っていたのに対し、当初ナイペルクは決戦を忌避して後退しかかり、その後で攻撃に転じるという中途半端な戦い方をした。そのために歩兵隊の展開が遅れた。プロイセン軍に対し優勢な騎兵隊を有するオーストリア軍は、カール・フォン・レーマー将軍指揮の騎兵を先行させてプロイセン騎兵を敗走させ、歩兵隊の戦列に突撃を敢行した。プロイセン軍は大混乱に陥り、シュヴェリーンは血気に逸る大王を宥めて前線から退避させ、しかるのち戦列を立て直した。オーストリア軍は歩兵隊が騎兵隊に追いついていなかったためにレーマーによるこの機会を決定的なものとすることができず、プロイセン軍歩兵の一斉射撃によってレーマーは戦死して騎兵隊は後退した。オーストリア軍歩兵が展開するころには立ち直ったプロイセン軍歩兵が猛攻撃をかけ、オーストリア軍は敗走した。 この戦いではオーストリア軍の騎兵がプロイセン軍のそれを質量ともに上回っていた。このため大王は以降騎兵戦力の強化に力を入れる。しかし歩兵に関してはプロイセン軍のほうが圧倒的に優れていた。規律も訓練も行き届いており、そのためにレーマーが5度にわたる突撃を敢行しながら、プロイセン軍は持ちこたえ、最後にはレーマーを戦死に追い込んだ。またプロイセン軍歩兵が鉄製の槊杖を採用していたのに対し、オーストリア軍の物は依然木製だった。歩兵についてはオーストリアの解決すべき重要な課題となった。 軍事的には、両軍の損害は互角か、むしろプロイセン軍のほうが多かったのでプロイセンの辛勝というところだが、政治的には大きな効果があった。この勝利によって諸国はプロイセンを有力な国家であると認め、オーストリアと係争していたデータ復旧 の使節が先を争って大王の陣地を訪れた。その結果、プロイセンはフランスとバイエルン選帝侯の神聖ローマ皇帝即位について合意に達し、あわせて15年の同盟を結んだ。もっとも、大王にはフランスやバイエルンを助ける気はさらさら無く、シュレージェンを得たうえは早々にオーストリアと講和したいと考えていた。しかし、イギリスのオーストリアに対する援助が期待されていたので当初はマリア・テレジアの徹底抗戦の態度は変わらなかった。 カロデンの戦い(Battle of Culloden)は、スコットランドで1746年に起こった、ジャコバイトによる最後の組織的抵抗である。日本語では「カロデン・ムアの戦い」「カロドンの戦い」「カロドン・ムアの戦い」とも表記される。 この敗北によってジャコバイト運動はほぼ鎮圧された。また、イギリス側指揮官カンバーランド公の虐殺が後世に残り、スコットランド人の対イングランド感情を悪化させる一因となった。 チャールズ若僭王は1745年、フランスからスコットランドに上陸した。ハイランドの氏族たちを集め、軍隊をおこした。チャールズの軍はエディンバラを占領し、政府軍の微弱な抵抗を立て続けに破っていった。11月8日チャールズ軍はイングランドに侵攻し、カーライル、マンチェスターおよびダービーへと軍を進めた。これはジョージ2世をハノーヴァーに逃げさせるための示威行動であったと考えられている。 さらにチャールズはイングランドやフランスにも蜂起を呼びかけた。フランスはチャールズ支援に動き出す意思を見せたが、イングランドではほとんど支持が集まらなかった。さらに、フランス艦隊の準備よりも、カンバーランド公の来寇が先んじていた。やむを得ずチャールズ軍はスコットランドに退き、グラスゴーで態勢の立て直しをはかった。いっぽうカンバーランド公率いる政府軍はエジンバラまで進み、ジャコバイト軍の動静を窺った。 チャールズ率いるジャコバイト軍は、その75%がハイランド人で占められていた。かれらの武装は貧弱で、剣または槍を持っていたのは2割程度であった。他の者は農具や棍棒、分捕った武器などありあわせの物を携えていた。彼らはおおむねカセミナー 教徒であった。11月末になってフランス艦隊が連れてきたのは800人ほどで、武装も士気も貧弱だった。 アバディーンで再編・訓練を行った政府軍は、質・量ともにジャコバイト軍を上回っていた。ドイツ人傭兵やイングランド人からなる正規兵に加え、氏族同士のいさかいからスコットランドのハイランド人の中からも、キャンベル氏族やムンロ氏族は政府軍に加わった。歩兵12個大隊、騎兵3個連隊に加えて大砲も揃っていた。 カンバーランド公は8000の軍勢をひきつれて4月14日、ネーアンに到着した。ジャコバイト軍はインヴァネスに駐屯していたが、政府軍がすぐ近くに来ているという報せに慌て、兵糧などを放棄して逃げ、ドルモーシー近郊に布陣した。当地は平坦で固い地盤の土地であったため、政府軍の砲兵や騎兵の行動に有利であり、大砲の威力も発揮しやすかった。このことは逆に、騎兵や大砲が少ないジャコバイト軍には不利であった。ジョージ・マレイ将軍らチャールズの部下たちは軽装歩兵によるゲリラ戦術を進言したが、チャールズは受け入れなかった。 4月15日、ジャコバイト軍の戦術が決した。夜襲によって政府軍陣地に攻め込むことになったが、兵糧を捨てたジャコバイト軍は飢餓に瀕していた。結局チャールズは軍をほとんど進めることができなかった。翌4月16日、政府軍が動き出した。折しも携帯 アフィリエイト になり、風下のジャコバイト軍は前方から叩き付ける雨に顔を上げることができなかった。 やがてカンバーランドの大砲が火を噴いた。ジャコバイト軍の前線はまたたくうちに崩れ始めた。チャールズに従っていた氏モバイル アフィリエイト たちは、チャールズの作戦指揮のまずさに不満をためていた。態勢を立て直そうとしたチャールズを待っていたのは、氏族長たちのサボタージュだった。それでもいくつかの氏族部隊は勇敢に戦い、局地戦で有利に展開することもあったが、大勢は動かなかった。もはやジャコバイト軍の敗北は明らかだった。 戦闘が終わると、カンバーランド公は負傷してその場から動けなくなっていたジャコバイト軍兵士や捕虜たちの首を刈り始めた。これによってカンバーランド公は屠殺屋の異名を賜ることになった。いっぽうチャールズは戦場からの脱出に成功するが、フランスに逃げ帰るために婦人に変装しなければならなかった。このときの顛末がスコットランド・アイルランドに伝わり、チャールズの人気を傷つけることとなった。 カンバーランドは依然その通販 にとどまり、ジャコバイトの捜索を続けた。捕らえられたジャコバイトは、くじ引きで当たりを引いたものが処刑された。捕らえられた3470人のジャコバイトの運命は処刑が120人、獄死88人、奴隷として植民地に送られた者936人、「追放」22人という記録が残っている。700余名の「その後」について記録はない。 イギリス政府は反乱の再発防止のために、キルトとタータンの着用を禁じ、氏族制度を解体して政府軍をハイランドに常駐させた。スコットランド人にとって、これは屈辱的な仕打ちに映った。