SUGAR
アルマダの海戦(アルマダのかいせん)とは、スペイン無敵艦隊の英国侵攻における1588年7月21日から7月30日にかけての各種戦闘の総称。 なお、両国での暦が異なるため記録上の日付も異なっているが、慣例的にイギリス側の日付を用いており、本項でもそれに従う。 スペインが英国を侵攻した要因の一つに、スペインが植民地から自国に物資を移送する途中で幾度と無く英国の海賊に襲われたため、英国の女王エリザベス1世に海賊船を取り締まるよう申し入れたが、エリザベス1世は聞き入れるどころか海賊行為に加担していた事があげられる。 夜明けとともにイギリス艦隊がスペイン艦隊の右翼後方から接近し砲撃を加える。その後、イギリス艦隊はスペイン艦隊の左翼後方の部隊へ攻撃を加えた。この戦いでスペイン側の副司令官が座乗するサンタ・アナ号は戦闘不能となった(サンタ・アナ号は左翼後方に配置されていた)。 またこの戦いの最中、サンサルバドル号が火災事故のため艦隊から離脱した。サンサルバドル号は艦隊の財務長官と金庫を搭載していたため、当艦の離脱は艦隊の士気に悪影響を与えた。 スペイン艦隊はカレー沖に停泊し、物資を補給しパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの部隊(3万5千名)と合流する予定だったが妨害を受ける。 深夜、イギリス艦隊により火船攻撃が行われた。8隻の船に可燃物を満載し風上からスペイン艦隊に突入させた。スペイン側も火船攻撃は想定していたようであるが、船の規模(100〜200t)と数は想定以上のものだったようである。この攻撃に混乱したスペイン艦隊は、バラバラに出撃し、またその多くが予備の錨などを失ったため、海岸に沿って北東へと漂流していく。 火船攻撃により三日月の陣形が崩れ、イギリス艦隊の射程に捕えられたスペイン軍は、集中砲火を浴び壊滅的な被害を受けた。夜明けからの戦闘で3隻を撃沈され2隻を大破させられた。戦闘が夜明けから日没まで続いたにもかかわらず、損害が少ないのは双方とも砲弾が残り少なくなっていたためである。 シドニア公が撤退を決定し、スコットランドを迂回して帰還を試みる。イギリス軍はもはや上陸の可能性は低いと判断し、スコットランドのフォース湾沖で追撃を打ち切った。スペイン軍は慣れない航路と連日の過労から座礁・難破・病気によりさらなる犠牲者を出した。 スペイン衰退の予兆となった。この戦い以降、ネーデルランドにおける独立運動が活性化しスペインは商業における手足を失うことにつながった。 スペイン最大の文学者の一人ロペ・デ・ベガは兵士としてこの海戦に参加している。 ドン・キホーテの作者セルバンテスもスペインの無敵艦隊で食料調達係をしていた。 後に日本に渡ったウィリアム・アダムス (三浦按針)は、英国軍の補給船の船長として前線と港を往復していた。 シャクシャインの戦いは、1669年(寛文9年)6月に北海道日高のシベチャリ(現日高管内の新ひだか町静内地区)のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族最大の蜂起である。なお、シャクシャインの乱と消費者金融 するものもあるが、現在では「乱」は支配体制に組み込まれたものが起こす行為であり、支配体制から独立性の強い存在であるアイヌの場合には「戦い」あるいは「蜂起」の呼称がより客観的であるとされる。 日高沿岸部及び以東の集団であるメナシクルのアイヌ民族と現在の日高町(旧国・日高国)から白老町(同胆振国)にかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シベチャリ川(静内川)の漁猟権をめぐる争いを続けていた。両集団の対立は文献では1648年まで遡ることが出来る。 15世紀頃から交易や和人あるいはアイヌ民族同士の抗争などから地域が文化的・政治的に統合され17世紀には和人(本州系日本人)から惣大将と呼ばれる河川を中心とする複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合する有力首長が現れていた。 メナシクルの首長であるカモクタインやシュムクルの首長でありハエ(後の日高国沙流郡、現在の日高町門別地区)にM&A を持つオニビシもそれに相当する。シャクシャインはメナシクルの副首長であった。カモクタインは1653年にオニビシとの抗争に敗死しシャクシャインがメナシクルの首長となる。 惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し1655年に両集団は一旦講和する。この際シュムクルと松前藩は接近しシュムクルは親松前藩的な立場となる。しかし寛文年間(1661〜73年)頃から対立が再燃し1668年4月にシャクシャインはオニビシを急襲して殺害する。 アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などを北方産物である獣皮・鮭・鷹羽・昆布などと交易していた。 しかし17世紀以降幕藩体制が成立するとCFD により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し和人(本州系日本人)との自由な交易が阻害されることとなった。 幕府権力を背景にした松前藩では17世紀後半には対アイヌ交易は松前城下などでの交易から商場知行制に基づく交易体制へと移行した。これは松前藩が蝦夷地各地に知行主(松前藩主や藩主一族及び上級藩士など)と彼らの知行地である商場を設定して知行主には直接商場に出向きそこに居住するアイヌ民族との交易権を与える交易体制であった。 その商場に居住するアイヌ民族にとっては和人との交易が特定の知行主に限定される不自由な交易体制であった。この体制により交易レートは次第にアイヌ民族に不利なものとなっていった。このレートはシャクシャインの戦い前夜の1665年には松前藩の財政難から一方的に従来の米2斗(1俵=30s)=干鮭100本から米7升(1俵=10.5s)=干鮭100本と変更されアイヌ民族にとって極めて不利なものとなった。 また和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する「押買」の横行や蝦夷地内陸部に入った鷹待や砂金掘りの和人や松前藩船の大網による鮭の大量捕獲がアイヌ民族の生業基盤を脅かし和人への不満が大きくなった。 シャクシャインにオニビシを殺されたハエの住宅ローン は松前藩庁に武器の提供を希望したが、藩側に拒否されたうえ、使者のウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせは、和人への不信感からアイヌ民族には「松前藩による毒殺」と誤って伝えられた。 この誤報により、アイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を一層強めた。シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族へ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応した。こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いからアイヌ民族による対松前藩・和人蜂起へと移行した。 1669年6月、シャクシャインらの呼びかけにより、イシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。突然の蜂起に和人は対応できず、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。 一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎蔵人が部隊を率いて胆振のクンヌイ(現長万部町国縫)に出陣してアイヌ軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ弘前・盛岡・久保田の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、松前藩主松前矩広の伯父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。弘前藩兵は松前城下での警備にあたった。 シャクシャインに率いられたアイヌ軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたがアイヌ軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことやアイヌ軍が内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され、協力が得られなかったことからアイヌ軍に不利となった。 このためシャクシャインは後退し松前藩との長期抗戦に備えた。8月10日には松前泰広が松前に到着、8月21日にクンヌイの部隊と合流し9月4日には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。さらに松前泰広は松前藩と関係の深い親松前的なアイヌの集落に対して、幕府権力を背景に恫喝して恭順させアイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。 シベチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は謀略をめぐらしシャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは結局この和睦に応じ10月23日日高のピポク(現新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。この他、胆振のアツマ(現厚真町)、日高のサル(現平取町)に和睦のために訪れた蜂起アイヌも同様に謀殺あるいは捕縛された。翌24日にはシャクシャインの本拠地であるシベチャリのチャシも陥落した。 指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。翌年1670年には松前軍は後志のヨイチ(現余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなどして各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は1672年まで続いた。 このシャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。その後、松前藩はアイヌ民族に対し、絶対服従を誓わせる七ヵ条の起請文を強要した。これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配はますます強化され、アイヌの生活は圧迫されていく事となる。 また、惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域が商場知行制や場所請負制が発展・強化されることによって場所ごとに分割されることとなりアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていった。