- STRIKE PRICE
- レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。 ヨーロッパ連合側には、ジェノヴァやイタリアの諸国家、マルタ騎士団も加わっていた。この海戦は、ヨーロッパ史においては大いなる転換点ではあったが、オスマン史においてはさほど衝撃的なものではなかった。ただしオスマン帝国がこの大敗に動揺し、スレイマン1世没後の帝国の曲がり角に立った大事件であった事は事実である。 ヨーロッパの連合艦隊は300隻からなり、有能な指揮官ドン・フアン・デ・アウストリア(スペイン王フェリペ2世の庶弟)によって指揮されていた。オスマン帝国側は、アリ・パシャに率いられた285隻であった。両軍とも大多数をガレー船が占めており、これをセミナー として用いた海戦としては最後のものとなった。 神聖同盟軍側では総司令官ドン・フアンが小舟で各艦に激励にまわっていた。 [編集] 午前11時 天候は快晴。東からの微風が吹き、帝国軍にやや有利な状況である。 同盟軍は左翼バルバリーゴ艦隊53隻、右翼ドーリア艦隊54隻で中央がドン・フアン(ヴェニエル、コロンナらが配下)の直属艦隊63隻。後衛にはサンタ・クルス提督30隻が控えている。 帝国軍は右翼シロッコ艦隊60隻、左翼ウチャリー艦隊100隻、中央がアリ・パシャの直属艦隊93隻。さらに後衛に22隻がいる。 風向きが西に変わり、帝国軍に帆を下ろすための隙が生じた。ここで先行する同盟軍のガレアス船が帝国軍を射程距離に捉えて砲撃を開始。戦果はてきめんであったが、帝国軍ガレー船は速やかに両脇を漕ぎ抜け、ガレアス船がこの後戦闘に加わることはなかった。 戦場の北、同盟軍左翼バルバリーゴ監視カメラ は帝国軍右翼シロッコ艦隊が後方へ回り込むのを防ぐため、海岸近くまで船を寄せていたが、地形に詳しいシロッコ艦隊の6隻が同盟軍後背に回り込むことに成功していた。激烈な戦闘が展開され、旗艦で指揮を執るバルバリーゴ司令も右目を矢で射抜かれ致命傷を負い、指揮官不在の同盟軍は崩壊しかけるが、隙を見て横付けした援軍により難を逃れた。指揮権はバルバリーゴの甥マルコ・コンタリーニが継承した。一方の帝国軍のシロッコも槍に胸を貫かれ戦死した。帝国軍は大混乱に陥り、先を競って離脱をはかったためかえって船を衝突させ被害を出した。 戦場の南、同盟軍右翼ドーリア艦隊は帝国軍左翼ウチャリー艦隊と対峙し、互いに包囲されるのを防ぐためにどんどん南へ移動していた。 中央部隊も大激戦であった。特に両軍の総旗艦が衝突した。ドン・フアンのガレー船はドーリアの進言により衝角を短くしていたため高い位置にあり、射撃(火縄銃による)の際有利であった。追い詰められたアリ・パシャが一騎打ちを挑むためかドン・フアンの旗艦に足をかけた瞬間に弾が彼に命中し、キリスト教徒のただ中に転落。ドン・フアンの意向とは反対に捕らえられ斬首された。 また、オスマン帝国軍のガレー船の粗大ゴミ がキリスト教徒の奴隷であったため、船を乗っ取れば戦力が増し同盟軍の利に働いていた。 戦場の南では、ドーリアとウチャリーが南へ移動し続けていたが、やがてウチャリーは北への転進をはかる。そこへ同盟軍左翼部隊・中央部隊で戦闘に決着がついたドン・フアンおよびサンタ・クルス侯がドーリア艦隊の救援に赴き、さらにドーリアも北へ転進した。すでにシロッコ、アリ・パシャとも戦死しており、これ以上の戦闘は無益とウチャリー艦隊は逃亡した。 スペインの旗艦のマストにアリ・パシャの首が掲げられたことで、オスマン帝国側の士気は崩壊した。 なお、致命傷を受けたバルバリーゴは2日後に死亡した。他にも艦長クラス以上の戦死者18名すべてがヴェネチア人で、彼らの勇戦を物語っている。 結果は、オスマン帝国の壊滅的敗北に終わった。海戦に参加したおよそ300隻の内、40隻しか生き残ることができない程であった。3万人が死亡、ガレー船のこぎ手として拘束されていたキリスト教徒の奴隷15000人が解放された。この戦いは、紀元前31年のアクティウムの海戦とナポレオン戦争中のナイルの海戦の間に位置し、それらと同じように地中海の趨勢を決める重要な戦いの一つとなった。 この戦闘は、ヨーロッパの脱毛 がオスマン帝国に大きく勝利した最初の戦いとなり、ヨーロッパに大きな心理的影響を与えた。しかし、その後、ヨーロッパ諸国は足並みがそろわず、その勝利をさらに前進させて、オスマン帝国に対する優位を獲得することにつなげることができなかった。大敗と言っても、オスマン帝国側の提督の戦略的失策によるもので、この海戦の結果が即、欧州、オスマン帝国の軍事的逆転に繋がる訳ではなかった。 オスマン帝国はすぐに艦隊の再建にとりかかり、6ヶ月後には再び大艦隊を保有し、ヴェネツィアからキプロス島を割譲させるなど、地中海における優位性を依然として維持した。ただし、地中海の西側においては、オスマン帝国の影響は及ばなくなっており、世界史上のこの戦いの意義は大きい。 小説「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテスもこの戦闘に参加し、左手が不自由になるほどの怪我を負っている。 神聖同盟軍の左翼部隊司令官アゴスティーノ・バルバリーゴとヴェネツィアのトルコ駐在大使マーカントニオ・バルバロを主人公とした小説。 アルカセル・キビールの戦い(Batalha de Alcacer-Quibir)は、1578年8月4日、モロッコのアルカセル・キビールで行われたポルトガル軍とサード朝スルタン軍との戦い。モロッコ側からは、「マハザン川の戦い」という。親征したポルトガル王セバスティアンは敗れ、戦死した。 1557年ポルトガル王ジョアン3世が没すると、孫のドン・セバスティアンが即位した。父ドン・ジョアンの死後に生まれた息子である。幼少であったため、ジョアン3世王妃のカタリーナが摂政に就いたが、カタリーナはスペイン王カルロス1世の妹であり、スペインの影響力がポルトガル王室に浸透し始めた。セバスティアンはイエズス会の強い影響力の下に教育され、1568年親政に就いたが、政務に興味を示さず、十字軍戦士となることを熱望し、北アフリカの征服を夢想するようになった。 また、この頃にはポルトガル海上帝国のインド洋における胡椒貿易独占体制は破られ、イスラム教徒の紅海貿易によってヴェネツィアの胡椒貿易が復活するようになっていた。このため、インドに代わる新たな植民地をポルトガルに近い北アフリカにトラック買取 しようとする動きも出てきた。 一方、モロッコでは1578年、サード朝第4代スルタンムレイ・ムハマッド(ムタワッキル)がオスマン帝国の支援を得た叔父のムレイ・アブデルマルク(アブド=アル=マリク)によって王位を奪われる事件が起こった。ムレイ・ムハマッド(ムタワッキル)は、仇敵のポルトガルに亡命し、セバスティアン王に援助を求めた。北アフリカ征服を夢想するセバスティアンはこれを絶好の好機と見なした。当時のスペイン王フェリペ2世は思いとどまるよう説得したが、ドン・セバスティアンは7月14日、6000人の外国人傭兵を含む17,000人の大軍を率いて、ムハマッド(ムタワッキル)とともにタンジールに上陸した。 十字架を高く掲げるポルトガル軍は、炎熱と兵糧不足に苦しみながら内陸へ進軍したが、スルタン・アブデルマルク(アブド=アル=マリク)は大軍を率いてルコ川沿いのクサル・エル・ケビール(ポルトガル語、アルカセル・キビール)で待ち受けていた。8月4日両軍は会戦し、ポルトガル軍は優勢なモロッコ軍に押されたものの、火器の力で盛り返した。だが、セバスティアンの稚拙な作戦のため、退いたモロッコ軍を深追いし、モロッコ騎馬の伏兵による奇襲を受け、大損害を出して敗北を喫した。 この戦いでモロッコの前スルタン・ムハマッド(ムタワッキル)は戦死し、セバスティアンも行方不明となった。捕虜にもなっていないことから戦死と見られる。また勝利したモロッコのスルタンも戦死しており、「三王の戦い」とも呼ばれる。 セバスティアン王はまだ24歳で包茎 であったため、ポルトガル王は摂政だった大叔父で枢機卿のドン・エンリケがエンリケ1世として嗣いだ。しかし、エンリケは老齢のうえ独身で世継ぎがなく、即位時点で後継者問題が起こった。しかも、アルカセル・キビールの戦いで多数のポルトガル貴族がモロッコの捕虜となり、巨額の身代金支払いのためポルトガルの財政は破綻、1580年エンリケ1世が死亡すると、スペイン王フェリペ2世によって併合されてしまう。 フェリペ2世はポルトガル王ジョアン3世の妹イサベルとスペイン王カルロス1世の息子であり、ポルトガル王位継承権を主張したものである。この後、ポルトガルは長くスペインの支配下に置かれるが、セバスティアンの遺体が見つかっていないことから、セバスティアン王は生きており、いつの日かポルトガルを解放するために戻ってくるという伝説が広まった。 一方、勝利したサード朝は、ムレイ・アブデルマルクを継承したアフマド・アル=マンスールの元で全盛期を築く。