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- オスマン帝国軍は、9月にはタブリーズを占領する戦果を上げたが、補給の困難と遠征による疲れや軍勢内部にじょじょに広がった厭戦気分から深追いをさけて退却せざるを得なかった。イスマーイール1世はこの敗戦で、政治への興味を失って狩猟や酒色に走るようになり、1524年に37歳の若さで没することになり、王朝は一気に衰退した。サファヴィー朝はしばらく忍耐と苦渋の時代を過ごすことになる。 マルジュ・ダービクの戦い(マルジュ・ダービクのたたかい、????? ??? ???? Ma'rakat Marj D?biq)は、1516年にシリア北部ダービク近郊マルジュ・ダービク(ダービク平原)で行われたオスマン帝国とマムルーク朝の戦い。 オスマン帝国の遠征軍がシリアに入ったという一報を受けて、1516年8月、マムルーク朝のスルタン・カーンサウフ・アル=ガウリーは、自らスルタン親衛隊の先頭に立ってアレッポを出発、ダービク草原に布陣した。マムルーク軍の右翼の先頭はダマスカスの太守サイ・ベイであり、左翼の先頭は、アレッポ太守ハーイル・ベイであった。中央の本軍は総司令スウードン・アルアジャミーの指揮下にあった。オスマン帝国側は、戦いに先立ってガウリーとレーシック であったハーイル・ベイに対して寝返るように工作を行い、すでに内応の約束を取り付けた状態で戦いに臨んだ。 8月24日の早朝からオスマン軍が先に攻撃を仕掛けて戦いが始まった。戦闘は中央軍の総司令スウードンの突撃によって開始され、これに続いて右翼のサイ・ベイが突撃した。マムルーク騎士の突進によって、オスマン軍の足並みが乱れた。この突撃はすさまじく、約2万のオスマン軍の将兵が戦死したと伝えられ、さすがのセリム1世も隊列を立て直すために一時退却を考えたほどであった。 ところが、ここで左翼を率いるハーイル・ベイが約束通り寝返った。ハーイル・ベイは寝返ったことを隠してマムルーク陣中に「スルタンは、古参のマムルーク兵部隊のみが戦闘を続け、他の部隊は追って命令のあるまで戦闘を停止せよ。」と命じているとふれ回り、このためにマムルーク古参兵部隊の士気は一気に落ち込んでしまった。更に総司令スウードンと右翼軍のサイ・ベイがともに戦死したのでマムルーク軍の士気はますます落ち込み、指揮官を失った中央本軍と右翼は退却し始めた。 ハーイル・ベイは退却するふりを見せつつ、さらに「スルタン、アル=ガウリーは殺され、我軍は敗れた。逃げろ逃げろ。敵は諸君を包囲しようとしているぞ。」と大声で叫びまわったので、マムルーク軍は潰走しはじめた。しかし、アル=ガウリーは実際には健在で、敗走する軍を立て直そうと「今こそ勇気を出せ。戦うのは今だ。一時の辛抱だ」と叫んだが、誰一人として耳をかす者はなく皆必死になって逃走した。武器部長のエステサロン がスルタンに自軍の敗北と脱出を進言すると、スルタン、アルガウリーは、ショックのあまり脳溢血をおこして半身不随になり、逃げるために一時は馬に乗ったものの、まもなく死亡した。スルタン・アルガウリー死亡の報はオスマン軍にたちまち伝わり、彼らは潰走するマムルーク軍に襲いかかった。セリム1世は、アルグーリーの天幕から武器、金銀貨、宝物、食料など戦利品を手中にした。オスマン軍がマムルーク軍から手にした戦利品は莫大なものだったという。 この戦いにオスマン帝国側は従来の騎兵だけではなく、常備の歩兵軍団であるイェニチェリを投入し、彼らを大砲・鉄砲で武装させていたのに対し、マムルーク朝側はそれまでの騎兵戦術に固執し、またその武具も旧態依然として弓矢、刀剣、槍などに頼っていた。加えて、マムルーク軍内にはオスマン側の内応工作の手が伸びていた。オスマン帝国は火砲の圧倒的火力を用意し、さらに周到な根回しを行った上で戦いに臨んでいた訳であり、見方によっては既に勝敗は決していたといえる。 この戦いの敗北はマムルーク朝にとって決定的なダメージとなったばかりか、オスマン帝国の遠征軍の勢いをより増す結果になり、翌年には本拠地であるカイロも陥落、マムルーク朝は滅亡することになる。 パヴィアの戦い(パヴィアのたたかい)は、イタリア戦争における戦いの一つで、1525年2月にロンバルディア(イタリア)のパヴィア城で行われた神聖ローマ皇帝カール5世率いる皇帝軍(スペイン)軍とフランス王フランソワ1世率いるフランス軍の戦い。皇帝軍は小銃とパイクを組み合わせて効果的に戦い、装甲騎士が主体のフランス軍は8000名の死者を出して総崩れになり、フランソワ1世やその側近は捕虜になった。 パーニーパットの戦いは、1526年4月に、ロディー朝スルタンイブラヒム・ロディーとムガル美容整形 の創始者であるバーブルの間で行なわれた戦い。少数兵力ながら、鉄砲という火器を有効に用いたバーブル軍が勝利をおさめ、ムガル帝国インド支配の足固めを築くことになった。 まず、バーブル軍は、12,000という兵力でインダス川を渡河した。一方、イブラヒム・ロディーは、10万の兵と1000頭の象を率いていたというが、実数は、バーブルよりは多かったという以外は不明である。バーブルは自軍の一部を民家の多いパーニパットに置く一方、木の枝で覆い隠した壕で自軍を保護し、実数が悟られないようにさせた。また、自軍の前面に多数の荷車を縛り付けて並べた「防壁」をつくり、荷車の間ごとについたてを作って鉄砲を発砲できるようにした。バーブル軍とロディー軍は一週間ほど小競り合いをしたが、勝負をつけようと前進するロディー軍は、バーブル軍の布陣の固さに攻めあぐねて躊躇した。このすきをのがさず、バーブル軍は、ロディー軍を側面と背後から攻撃し、前面からは鉄砲隊が有効に射撃を行なった。スルタン、イブラヒムは、象軍を使うこともできず、崩れつつある自軍をかろうじて支える彼の周りを固めていた5,000〜6,000人の兵士とともに勇敢に戦ったが敗れ、15,000人以上がこの戦闘で殺されたと推定される。 モハーチの戦いは1526年8月29日にハンガリーのモハーチ平原で、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。オスマン帝国軍が勝利し、ハンガリー平原へと進出する。 当時オスマン帝国はスレイマン1世の視力回復 で、このころには1522年にはロードス島の聖ヨハネ騎士団を退けるなど国力は充実していた。スレイマン1世はベオグラードを「ヨーロッパの玄関」と言い、さらなるヨーロッパ進出に意欲を見せていた。 1526年の4月にスレイマン1世は6万以上の兵力と300門の大砲からなる大軍を催し、ハンガリー征服にイスタンブルからハンガリーに進軍した。迎え撃つハンガリー軍は20歳の国王ラヨシュ2世率いる3万の軍勢とトランシルバニア侯サポヤイ・ヤーノシュの援軍3万、姻戚のハプスブルク家やボヘミアからの加勢からなっていた。 ところが、オスマン帝国軍がドナウ川のほとりモハーチに姿を現すと、ハンガリー軍は援軍を待たずに戦いを挑んでしまう。オスマン帝国軍は組織的な戦術を展開し、騎士からなるハンガリー軍を誘導し一網打尽にした。ハンガリー軍は国王ラヨシュ2世が戦死したのをはじめ、壊滅的敗北を喫する。 この戦闘後、9月にはスレイマン1世はハンガリーの首都ブダ(ブダペストの一部)に進駐し、帰国した。 空位となったハンガリー王にはトランシルバニア侯サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー貴族によって選ばれるが、ハプスブルク家は1515年の規定に従いカール5世の弟フェルディナントをハンガリーとボヘミアの王にする。2王朝の対立である。 4年後の1529年、ハンガリー王位の争いに敗れたヤーノシュ侯の要請に応じて、スレイマン1世は再びハンガリーに進軍し、さらにウィーンを包囲した。第一次ウィーン包囲である。