- STOCK
- アンカラの戦い(アンカラのたたかい)は、1402年8月にバヤズィト1世率いるオスマン朝軍とティムール率いるティムール朝軍の間で行われた戦闘。 オスマン帝国は1299年の建国以来、西に向って大発展し、ムラト1世は1389年、コソボの戦いで、当時バルカン半島に君臨していたセルビアを破った。後を継いだバヤズィト1世は1396年、ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ連合軍をニコポリスの戦いで破り、「雷帝」と恐れられた。一方、モンゴル帝国の支配の弱まった中央アジアでは、1370年、ティムールが大国家を建設していた。ティムール、バヤズィト対決の直接の原因は、ティムールに追放されたトルクメンの族長カラ=ユースフをバヤズィトが援助したことであった。 ビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲していたバヤズィト1世は、急ぎ小アジアに戻った。ティムール軍は、オスマン帝国に支配権を奪われた小アジアの元君主たちの勢力を加えて約20万人、バヤズィト軍は約12万と推定される。この時、ティムール軍には象隊もあったとされている。両軍はアンカラ北東で激突、戦闘は朝から夜間まで続いたという。オスマン軍中の小アジアの勢力が、ティムール側に寝返ったのを機に、戦況はバヤズィト側に不利になった。退却しようとしたバヤズィトは落馬して捕虜となり、翌年病死した。 敗戦によって、オスマン帝国は一時壊滅的な状況となり、滅亡の寸前まで追い詰められていたビザンツ帝国は救われた。 バヤズィトの子・メフメト1世により再建されたオスマン帝国は1453年、メフメト2世によってビザンツ帝国を滅ぼし、大きく発展した。一方、ティムールは明の永楽帝の朝貢の要求に対して遠征を決意。1405年、68歳のティムールは20万の大軍を率いてシル河畔のオトラルまで来たがそこで病死。ティムール朝はその後1世紀ほど存続したが、ウズベク族に滅ぼされた。 タンネンベルクの戦い(Schlacht bei Tannenberg)又はグルンヴァルトの戦いは、1410年7月15日、ポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた戦闘である。現在ポーランドにある、グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村とウォドヴィゴヴォ村の間にある平原で戦われた。 リトアニアではジャルギリスの戦い(?algirio m??is)、ポーランドではグルンヴァルト(ステンバルク)の戦い(Bitwa pod Grunwaldem)、ベラルーシではグルンヴァリトの戦い(Гру?нвальдзкая б??тва)、外国為替 ではグリュンワルドの戦い(Grunwald su????)などと呼ばれる。 ポーランド王兼リトアニア大公であるヴワディスワフ・ヤギェッウォ率いるポーランド・リトアニア連合軍は、ボヘミア人、ルーシ人、タタール人の援軍を加え、39,000人だった。一方、他のいくつかの騎士団を含むドイツ騎士団は、騎士団長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンを指揮官とし、27,000人であった。 騎士団の左側面への最初の攻撃が失敗したのち、リトアニアの軽騎兵は沼沢地へと撤退した。ヴワディスワフは敵の右側面への総攻撃を命令した。最後には、重騎兵が騎士団の隊列を打ち破り、ヴワディスワフの勝利に終わった。ユンギンゲンは死亡した。野営地に撤退する途中に、戦争に協力したポーランド人の農民に殺されたものと推測されている。戦闘に勝利したポーランド・リトアニア連合軍は、マリエンブルク(エルブロンク)近くマルボルク城を包囲したが、連合軍の兵士は農民が多く、収穫期を迎えたため攻囲を解いて引き上げた。 1411年、トルンの和約によって、ポーランドはドブジン地方を、リトアニアはサモギチアを回復した。ポーランドが、ドイツ騎士団を退去させなかったのは、外交上の敗北だと考えられている。 戦闘の敗北により、騎士団の不敗神話が崩れたことと、騎士修道会が税率を引き上げたことが、商工民を中心とした都市住民による自治都市連合のプロイセン連合成立の契機となった(プロイセン連合加盟の各都市はドイツ騎士団を嫌ってポーランド王の庇護を求め、後にポーランド王国に加入した)。ドイツ騎士団は、回復しえない打撃を受け、その後世俗化し、ポーランド王国の封臣となったが、その後も紛争は続き、十三年戦争でようやく終息した。 実際の戦闘の場所はタンネンベルクではなかったが(北西アレンシュタイン/オルシュティン地方)、1914年に大勝利したドイツ帝国が、雪辱を果たしたとしてこの戦いもタンネンベルクの戦いと呼んだ。(タンネンベルクの戦い (1914年)参照) 毎年7月になると、この中世の戦いを記念して外国為替証拠金取引 から来た何千人もの騎士たちが、グルンヴァルト古戦場跡で戦いを再現している。 コシャマインの戦い (こしゃまいんのたたかい) は、応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。志濃里(志海苔)の和人鍛冶屋と客であるアイヌ少年の間に起きた諍いをきっかけに、オシャマンベの首長コシャマインを中心としてアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが、最終的には鎮圧され、松前藩形成の元となった。 当時和人は既に渡島半島から道南に進出しており、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌ少年が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌ少年を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。 1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に武田信広によってコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。 この事件の背景に、当時の北奥羽における南部氏と安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある[1]。 アイヌ対和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし同藩形成後もアイヌの大規模な蜂起は起こっている(シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦い)。 チャルディラーンの戦い(Battle of Chaldiran)とは、1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーン (Chaldiran) で行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシャとの戦い。 鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いである。騎馬隊と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の長篠の戦いにたとえる人もいる。 オスマン帝国軍は、セリム1世に率いられ、10万とも20万とも言われ、対するサファヴィー朝軍は、イスマーイール1世に率いられた1万5千とも4万ともいわれる西アジア最強で鳴らしたトルコ系騎馬軍団クズルバシュであった。 戦いの前日にサファヴィー朝軍は布陣を終えたが、左翼を受け持った将軍ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーと右翼を受け持った将軍のドルミーシュ・ハーン・シャームルーとのあいだで、夜襲を行うか否かで意見が対立したために、結局イスマーイール1世が正面攻撃を行うことを決意することになった。 夜が明けると、サファヴィー朝軍は騎馬軍団クズルバシュが怒濤のような猛攻を行い、オスマン帝国軍の右翼を守るアナトリア騎兵軍をつきくずすほどであった。しかし、戦局は鉄砲を装備したイェニチェリと鎖でつないだ大砲を軍勢の中央に配置したオスマン帝国軍が騎兵をことごとくうち倒すかたちになり、右翼の傷も救援に回ったイェニチェリ鉄砲隊によって形勢が逆転し、サファヴィー朝軍は善戦する左翼ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーを失って総崩れとなった。結果、イスマーイール1世はかろうじて戦場から逃れるほどの惨敗となった。