- STATEMENT
- 事実、イルハン朝では1260年以降フレグ、アバカなどはジョチ・ウルスとはアゼルバイジャン地方で、チャガタイ・ウルスとはホラーサーン地方での境域紛争に忙殺され、バイバルスによる度重なるシリア境域地域の侵攻には対策が後手に回り続けている。歴代の君主たちもガザン・ハンなどシリア地域に幾度か遠征軍を派遣しているが、大抵の場合、軍の規模もせいぜい3万前後がほとんどでアレッポ以南の地域への征服はほぼ失敗している。クビライとアリクブケの帝位継承戦争の後もモンゴル帝国自体、王家間の紛争が長期化・続発して帝国全体での軍事行動が不可能になったことも、モンゴル側にとってのシリアにおける失地挽回の機会が失われた根本的原因であった。 いずれにせよ、西方におけるモンゴル帝国の際限のない拡大が停止したのがアイン・ジャールートの戦いのあった1260年であるのは確かであり、その意味で象徴的な戦いである。 クビライ率いるモンゴル人の王朝元は1276年に南宋の首都臨安を落とし、南宋皇帝の恭帝は降伏した。これで、南宋は滅亡した。 しかし、陸秀夫、文天祥、張世傑や陳宜中などの一部の南宋に遺臣たちは、臨安陥落と同時期に南宋の皇子を皇帝に奉戴し、元に対する抵抗運動を続けた。元軍はそれを破っていく一方で、泉州の実力者で海上交易で富を蓄えた蒲寿庚を取り込むなど、華南地域を支配下においていった。 次第に江南から広東へと追い詰められた旧南宋軍は船団で海上を漂流しながら、抵抗を続け現在の香港周辺にある、涯山という当時何もなかった島に砦と行宮を構築し、徹底抗戦の構えを見せた。一方元軍は蒲寿庚から船舶及び熟練の水夫の提供を受けており、不慣れな海上でも旧南宋艦隊を追跡し戦いを有利に進めていった。元側の記録によると、旧南宋艦隊は、1,000隻の大型船をがっちりと繋ぎ合わせ、防火用に船体外装に泥を塗り、敵が近づけないよう長い木材を縛り付け外国為替証拠金取引 とし、油をそそいで火攻めを図る元軍を破ったそうである。 しかし1279年2月なかば、長い消耗戦に疲れ切った旧南宋軍は敗走した。やがて絶望した家臣や幹部たちが次々と入水していく中、陸秀夫は幼帝に「大学」の講義を船内でしていた。しかし2月6日の昼すぎ頃には敗北を悟り、皇帝を抱いて入水した。これをきっかけに戦闘は終結。元軍の勝利が確定した。 崖山から脱出した張世傑は、再起を図るためベトナムへ向かう途中嵐に遭って船が転覆し溺死した(1279年)。 陸上で抵抗運動をしていた文天祥はこの戦い以前の1278年に元に捕縛され大都(今の北京)に護送された。元王朝は優れた文人である彼を登用するために説得を繰り返したが、彼は頑なに拒否し続け獄中で『正気の歌』を詠みつつ1282年に刑死した。 名目上は、恭帝が元に降伏した時点で南宋は滅亡したことになっているが、これによって宋朝復興の抵抗勢力は完全に潰え元による中国統一が完了した。 オーレの戦い(Battle of Auray, 1364年9月29日)は百年戦争の一部でもあったブルターニュ継承戦争を終結させた戦闘で、イングランドが支援するモンフォール家のジャン4世が、フランスが支援するシャルル・ド・ブロワを敗死させ、唯一のブルターニュ公となった。 1360年にブレティニィ・カレー条約によりイングランド、フランスが停戦した後、ブルターニュでも和平交渉が行われていたが、1364年に決裂し戦争が再開された。ジャン4世は、イングランドのジョン・チャンドスの支援を受けて、1342年以来フランス・ブロワ側の支配下にあるオーレの町を攻撃し、町中にある城塞を包囲した。 城側は十分な食料が無かったため、ミクルマス(9月29日)までに援軍が来なければ開城することに同意した。 しかし、9月27日にシャルル・ド・ブロワとフランス軍を率いるベルトラン・デュ・ゲクランの援軍がオーレに到着し、28日に城の前を流れる川の左岸に展開した。これに対し、モンフォール軍は城兵とブロワ援軍に挟撃されることを恐れ、オーレから離れて川の右岸に布陣した。29日に交渉は決裂し、ブロワ軍は川を渡り南面して布陣し、それに呼応したモンフォール軍は北面して布陣した。 左にオーセル伯、右にゲクラン、中央にシャルル・ド・ブロワで、わずかな予備隊は使用されなかった。各部隊は約1000人ずつ。 モンフォール・イングランド軍 右にオリビエ・ド・クリソン、左にイングランドのロバート・ノールズ、中央にジャン4世とジョン・チャンドスで、ヒュー・カルヴェリーの元にかなりの予備隊が存在した。 フランス側のクロスボウとイングランド側の弓兵との小競り合いから始まり、まもなく重武装兵の正面からの激戦に突入した。両陣営とも長期にわたる戦争の決着を意図しており、捕虜を取るなと命令されていた。 投資信託 は各隊にわたって被害を受けたが、予備隊からの補充により持ちこたえた。一方、ブロワ軍の右翼も被害を出したが、補充が無いため崩れだし中央に流れ込み、次いで左翼も崩れだし、オーセル伯が捕らえられた。中央の部隊は戦場からの逃走を図ったが、シャルル・ド・ブロワは命令を忠実に守ったイングランド兵に殺された。ゲクランは全ての武器が尽きるまで奮戦したが、ジョン・チャンドスに降服した。 クリコヴォの戦い(ロシア語:Куликовская битваまたはБитва на Куликовом поле)は、1380年9月8日、モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイの率いるルーシ諸侯連合軍が、モンゴル帝国系のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)のママイ・ハーン軍とそれに同盟したリトアニア大公国・ルーシ諸侯などの連合軍を破った戦い。 なお、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの小説『胴巻のザハール』では地名が「クリーコヴォ」なのか「クリコーヴォ」なのかという問題が出されているが、一般には「クリコーヴォ」を取っている。 ロシアの諸国にとって、モンゴル(タタール)に対する史上最初の大勝として特筆され、資産運用 が「タタールのくびき」から脱却する最初のきっかけになった出来事として評価される。また、この戦いに勝利したことからモスクワ大公国の威信は大いに上がり、同国の勢力拡大に大きな影響を及ぼしモスクワ大公ドミトリーは「ドミトリー・ドンスコイ(「ドン川のドミトリー」の意味)」の称号を得た。 敗れたジョチ・ウルスであったが、その後新たなハンの下で巻き返しに成功し、モスクワ軍を駆逐した。しかし、こうした過程を経て次第にジョチ・ウルスの勢力は減退と分裂を極めていった。この戦いは、以後ロシア人がこの地域に台頭するきっかけとなる歴史的な大事件としてロシア史では半ば伝説的に語られている。 コソボの戦い(Косовска битка)は1389年にコソボで勃発した、セルビア王国とオスマン帝国による会戦である。 1389年の6月28日、コソボ平原で、セルビア王ラザル・ボスニア王トヴルトコ・ワラキア大公ミルチャなどからなるバルカン半島の諸侯軍が、アジアからの勢力を伸ばしつつあったムラト1世率いるオスマン帝国軍と会戦した。戦いはオスマン帝国軍の大勝に終わった。 この戦いの結果、オスマン帝国はドナウ川以南の支配権を確立しセルビア・マケドニア・ブルガリアはオスマン帝国への服従を強いられる。この戦いでオスマン帝国はバルカン半島征服に大きな成果を獲得した。 ところが、ムラト1世はセルビア貴族ミロシュ・オビリッチ(コビリッチ、コビロヴィッチとも)の謁見の際に刺し殺されしまう。そしてオスマン軍は報復に捕虜のセルビア王ラザルを殺害。すぐにバヤズィト1世がスルタンに即位。バルカン征服事業を継承する。 戦地となったコソボはセルビア王国の聖地となった。のち、1980年代にセルビア民族主義を掲げるミロシェヴィッチが台頭すると、コソボの自治権を大幅に制限し、クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナなどで難民となったセルビア人を入植させる政策がとられた。このためコソボでの民族バランスが大きく崩れることとなり、1990年代後半のコソボ紛争へとつながっていった。