- SQUEEZE
- クラクフの諸侯たちはこれを追撃に出たがことごとく返討ちにあった。サンドミェシュでモンゴル軍は部隊をふたつに別け、北上させてポーランド中部のウェンチツァ ??czyca や中西部(現在のクヤヴィ=ポモージェ県)の中心都市クヤヴィ Kuyavia 方面へも向かわせたという。3月18日にクラクフ侯ボレスワフ5世は、クラクフ北側のフミェルニク Chmielnik 付近でのモンゴル軍との戦闘でポーランド軍が多数の死傷者を出して敗北したため、母と夫人とともにカルパティア山脈の麓の城塞に避難することを決め、さらにモラヴィアへ退避した。これによってクラクフの有力者は都市を放棄してドイツ方面などへ避難し、その他の住民たちは山林などへ逃亡する事態となった。4月1日にモンゴル軍はクラクフに到着したが、ほぼ無人状態のこの都市に火を放った。その後さらに北上してシレジアに入った。モンゴル軍はオドラ川を筏や泳いで渡ったが、ポーランド軍はまだ兵力が足りなかったため後退し、モンゴル軍はシレジアの州都であるヴロツワフまで直進した。しかし、ヴロツワフの都市はモンゴル軍の兵站になることを恐れたポーランド側が焦土作戦を行って市街地が灰燼に帰しており、クヤヴィに向かった部隊と合流して、レグニツァ付近で各地の軍勢が集結しつつあるポーランドとその連合軍を打つことになった。 ピャスト朝のヘンリク2世はレグニツァで3万の軍勢を集め、これを五つの軍に別けた。第一軍はモラヴィア辺境伯ボレスラフが率いるドイツ系の兵士から成る軍で、第二軍は大ポーランド地方の軍とクラクフ州知事ウラディーミルの兄弟であったスリスワフ率いるクラクフ軍、第三軍はオポレとラチブシュの大公ミエツコ Mieszko の軍、第四軍はチュートン騎士団、そして第五軍はヘンリク2世率いるシレジアおよびポーランド王国軍であった。 しかしながら、これらモンゴル軍の侵攻に対抗したポーランド・ドイツ諸侯らによる騎兵集団とキリスト教徒からなる軍勢は、封建的な君臣関係で集まった鎖帷子を全身にまとった騎士とその直属兵および農民兵や傭兵の軍隊がさらに寄り集まった、所属も言語も指揮系統もバラバラの多国籍歩騎混成軍であり、また騎兵だけで見ても騎乗したままの集団戦闘を行うモンゴル軍に対し、個々の武力で戦い、接近の後降りて戦うこともあったヨーロッパでは戦術面・統制面でヨーロッパ側の軍が大きく劣っていたようである。 戦闘が開始されるとモンゴル軍の先鋒は得意の偽装撤退を行って追撃してきた連合軍の先鋒軍を誘い込み、包囲射撃によって壊滅させた。救援に向かった後続部隊もモンゴル軍の待ち伏せ作戦によって打ち破られ、逆にモンゴル軍本隊の大軍が連合軍の側に突撃を開始した。後詰のヘンリク2世とドイツ騎士団の本隊はモンゴル軍に必死の抵抗を行ったが、既に劣勢の戦いであったことからモンゴル軍の勢いに陣営を突き破られ、潰走した。 この戦いで総司令官のヘンリク2世は戦死、その公家が支配していたシロンスクとクラクフの北海道旅行 沖縄旅行 沖縄旅行 北海道旅行 沖縄 レンタカー 沖縄旅行 レンタカー は分裂し、ポーランドは統一から遠のく。モンゴル軍はこの戦いの後ポーランドを席捲し、バトゥ率いる本隊の先鋒は一時オーストリアのウィーン近くまで迫るが、モンゴル皇帝オゴデイが急死したことによって撤退した。 この戦いはモンゴルの侵攻に対するヨーロッパの命運を決したと言われる悲劇的敗戦だったが、モンゴル軍にとっては戦法の常道によって行われた局地戦の勝利に過ぎなかった。なお、戦いの存在自体を疑問視する説もあるが、ほとんど認められていない。 アイン・ジャールートの戦いは、1260年9月3日、シリア・パレスチナのアイン・ジャールート (??? ????? ‘Ayn J?l?t) で行われた会戦。クトゥズ率いるマムルーク朝軍が、キト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り、モンゴル帝国の西進を阻止した。 アイン・ジャールートでマムルーク朝と激突したモンゴル軍は、フレグを総司令官とするモンゴル帝国の西アジア遠征軍に属する一隊である。 1253年に編成されたフレグの遠征軍は西進を続け、1258年にはバグダードを征服してスンナ派イスラム社会において最大の権威であったアッバース朝を滅ぼしていた。遠征軍は遊牧の適地であるアゼルバイジャン方面にいったん入ったのち1260年にシリア北部へと侵攻し、アレッポを征服した。モンゴル軍には十字軍がシリアの北部に打ち立てたキリスト教徒の諸政権やキリキア・アルメニア王国、それにジャズィーラ・アナトリア方面のイスラム教徒の諸政権が服属した。しかしアレッポが陥落した1260年の春ごろ、フレグの兄でモンゴル帝国大ハーンのモンケの訃報がフレグのもとに届き、フレグの本隊は西進を中止して帰還を開始した。 フレグは帰還にあたってダイビング 部隊を率いる将軍、キト・ブカをシリアに残した。キト・ブカはアイユーブ朝の政権が残っていたダマスカスを征服し、アイユーブ朝のエジプト政権にかわってエジプトを支配していたマムルーク朝に降伏を勧告する使者を送った。しかしマムルーク朝のスルターン、クトゥズはこれを拒否したため、キト・ブカは麾下のモンゴル軍とキリスト教徒諸侯を率い、マムルーク朝領への侵攻を開始した。マムルーク朝の前にはエルサレムを失ったエルサレム王国が拠るアッカーがあり、キト・ブカはアッカーに迫った。 キト・ブカ南下の報を受けたクトゥズは配下のマムルークを率い、カイロを出発した。このマムルーク政権存亡の機に際し、追放されてシリア方面で放浪の日々を送っていたバイバルスら反クトゥズ派のマムルークたちはクトゥズと和解してその軍隊に加わり、またモンゴル軍に降ることを嫌ったアッカーのキリスト教徒たちは中立の立場を取ってマムルーク朝軍の領内通過を許した。 9月3日、マムルーク朝軍とモンゴル軍は、ガリラヤの丘陵地帯で激突した。戦場には小さな川が流れており、川にちなんでアラビア語でアイン・ジャールート(ゴリアテの泉)と呼ばれていたので、この戦闘をアイン・ジャールートの戦いという。 先鋒隊のため1万人強の小勢であったモンゴル軍に対して、数では優位にあったとみられるマムルーク朝軍は全軍を投入することを避け、まずバイバルス率いる先鋒隊のみがモンゴル軍の前に進んだ。バイバルス隊に対して数で勝ったモンゴル軍は、マムルーク朝軍に突撃して一気に勝敗を決しようとし、後退を始めたバイバルス隊を追撃したが、待ち受けていたマムルーク朝軍本隊によって包囲、攻撃され、壊滅した。 モンゴル軍の司令官キト・ブカは捕らえられて処刑されたとも、乱戦の中で戦死したともいう。シリア駐留モンゴル軍の壊滅により、マムルーク朝軍はダマスカス、アレッポを解放し、シリアをモンゴル帝国から奪還した。 アイン・ジャールートの戦いの後、マムルーク朝軍はシリアを北上し、モンゴル軍の残党や、シリアに再侵入してきた部隊を破りつつシリアのほぼ全域を平定した。しかしアレッポを回復したところで、先の戦いの功労者であるバイバルスと、総司令官であるクトゥズの対立が再燃した。バイバルスはアレッポの総督に任命されてこの地方に自立することを目論んでいたが、クトゥズはバイバルスが独立して自分の地位を脅かすことを怖れ、これを拒否した。このためにカイロに戻る途上でバイバルスによる軍中クーデターが勃発し、クトゥズが殺されてバイバルスが新しいマムルーク朝のスルターンとなった。 バイバルスはモンゴルの侵攻をはねのけた英雄としてカイロに凱旋し、エジプト・シリアの王として確固たる地位を築いた。その後も毎年のように行われたモンゴルとの戦争で連戦連勝を重ねたバイバルスは、中央アジアからやってきた余所者であるマムルークたちを安定政権の主とすることに成功し、事実上のマムルーク朝の始祖となる。 一方、アイン・ジャールートの戦いを前に帰還を開始したモンゴル帝国のフレグはアゼルバイジャンのタブリーズにおいて、次兄のクビライと弟のアリクブケがハーンの位を巡って内紛を始めたことを知ってこの地に留まり、イラン・イラクを高速バス 夜行バス 高速バス 夜行バス として自立した。やがてフレグの子孫によって世襲されるようになるイランにおけるモンゴル政権をイルハン朝(イル・ハン国)と呼ぶ。 アイン・ジャールートの戦いの結果、シリアはマムルーク朝の領域となり、その後もイルハン朝とマムルーク朝の間でこの地方を巡って長く対立が続くものの膠着状態に陥った。両国の角逐はジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)やビザンツ帝国、西ヨーロッパ諸国を巻き込み、13世紀の後半を通じて激しい外交戦が繰り広げられることになる。 この戦いは、マムルーク朝側の歴史家たちが残した同時代のアラビア語史料から現代の歴史研究に至るまで、ムスリム(イスラム教徒)がモンゴル帝国軍と正面から衝突して、初めてこれを破った戦いとして非常に名高い。しかし、ムスリム政権の軍がモンゴル帝国軍に勝利した前例は、すでに1221年にホラズムシャー朝のジャラールッディーンの軍団がシギ・クトク率いる3万騎強を撃ち破ったアフガニスタンのパルワーンの戦いがあり、厳密に言えば「初めて」ではない。一方で、『集史』などモンゴル帝国側のペルシア語史料などでは、前哨戦ないし局地戦の扱いを受けている。モンゴル側の立場としては、この戦いに参加したモンゴル帝国軍は、フレグの帰還にともなってシリアに残された全軍のうちの一部の部隊であるからである。他のモンゴル帝国軍が敗退した戦闘は、後日にモンゴル側から反撃を受けて敗走、討滅させられている場合がほとんどであるため、アイン・ジャールートの戦いほどには印象が薄いようである。アイン・ジャールートの戦いが印象的である理由は、恐らくその後のモンゴル側の政情が著しく変化し、シリア奪回の機会が失われ、結果的にこの地域がマムルーク朝の統治下に置かれることが確定した戦いであったからであろう。