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ハロルド2世が討ち取られたとされている地点はハロルド軍側から見て右翼の丘の中腹にあるが,丘のこちら側は勾配が他の部分に較べて緩やかなことから,ギヨーム軍がハロルド軍の右翼に攻撃を集中させた為,ハロルド2世も右翼に移動して前線で戦闘に参加して落命したとの見方もある。 バイユーのタペストリーではハロルド2世は矢で目を射抜かれたことになっているが,これについては「視力を失う」ことが別の何かの象徴なのではないかとの見方もあり,史実がこのようであったと断言出来るわけではないとされる。 ギヨームはウィリアム1世として即位し、いわゆるノルマン朝(1066年〜1154年)を開いた。ウィリアム1世は、反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して功臣に与え、彼ら諸侯に忠誠を誓わせて強大な王権を樹立した。彼はロンドンを首都と定め、教会組織も整えた。こうしてイギリスには、王権の強力な独自の封建制が成立することになった。その後、ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化し、文化の融合も行われた。言語もアングロ・サクソンの言葉を中心に、ノルマン・フランスそれぞれの要素を融合させ、今日の英語になっていったのである。 マラズギルトの戦い(トルコ語:Malazgirt Sava??、ギリシア語: Μ?χη του Μαντζικ?ρτ Mache tou Manzikert)とは1071年8月26日に、アナトリア東部のマラズギルト(Malazgirt)で、東ローマ帝国とセルジューク朝との間で戦われた戦闘。セルジューク朝が勝利をおさめ、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となった。 戦闘が行われた地名について、東ローマのギリシア語文献はアルメニア語の「マンツィケルト」(Mantzikert)を転写した「マンツィケルト」(Μαντζικ?ρτ, Mantzikert)なる表記で記している。一方、セルジューク朝関連のペルシア語文献では「マラーズギルド」( ??????? Mal?zgird)或いは「マナーズギルド」( ??????? Man?zgird)などの表記を採り、アラビア語文献では「マナーズジルド」( ??????? Man?zjird)などとも記されている。 1038年に、ニーシャープール、エスファハーンを拠点としてホラーサーン以西のイラン全土を支配下に置いたトゥグリル・ベクは、麾下のオグズ(テュルクメン)系テュルク遊牧民の軍勢を率いてアッバース朝の首都バグダードに入城し、トゥグリルはカリフ・カーイムからスルターンの称号を正式に許可され、セルジューク朝が開基されると、その勢力は西方のアゼルバイジャン、シリア方面にのびていった。第2代スルターンとなったアルプ・アルスラーンの頃にはグルジア、ファーティマ朝治下のシリアに進出。さらにアルメニアに食指を動かした。 これが、東ローマ帝国との対立を生ずることになり、この戦いにいたった。 1071年春、ロマノスはセルジューク側を上回る6万の軍勢を率いて討伐に向かい、アルメニアのヴァン湖北岸のアフラートen:Ahlat(ヒラート)とマラズギルト、二つの要塞を確保するため東方に親征した。アルプ・アルスラーンは1万5000騎でシリアから北上し和議を申し入れたが、数を頼みとするロマノスはテュルク人の西方進出を一掃すべく、和議を蹴って決戦に臨んだ。 こうして8月17日、両軍はアフラートとマラズギルトの間で戦闘になった。しかし、ロマノスの率いていた当時の東ローマ軍は傭兵の寄せ集めで士気が低く、またドゥーカス王朝の一族アンドロニコス・ドゥーカスが裏切って兵を引き上げたために東ローマ軍は大混乱に陥り、ロマノス自身も捕虜となって敗北してしまったと言われている。ローマ皇帝が捕虜になったのは3世紀にサーサーン朝の捕虜となったヴァレリアヌス以来のことである。 東ローマ帝国のアナトリアでの影響力が低下し、アルプ・アルスラーンによるダーニシュマンド朝などのセルジューク系のオグズ・テュルクメン諸侯勢力の入植によって、アナトリアのイスラーム化とテュルク系民族の進出の端緒となり、ルーム・セルジューク朝、さらに後々のオスマン外為 の勃興、東ローマ帝国の滅亡へと繋がる遠因ともなった。また、セルジューク朝の脅威にさらされることになった東ローマ帝国は、西欧に救援を要請し、これが十字軍となった。 ブービーヌの戦い(Battle of Bouvines、1214年7月27日)は、フランス王フィリップ2世が神聖ローマ皇帝オットー4世、フランドル伯、イングランド軍(ソールズベリー伯ウィリアム)、ブローニュ伯等の連合軍をフランドルとフランスの境近くのブービーヌで破った戦い。この結果、オットー4世は皇位を失い、イングランド王ジョンは、大陸領土の回復に失敗し、イングランドで諸侯の反乱に屈することになる。 イングランド王ジョンは、アンジュー帝国と称されたフランス領土の大部分を、即位後のブルターニュ公アルテュール1世(アーサー・オブ・ブリタニー)やフランス王フィリップ2世との抗争で失っており、その回復を目指していた。一方、以前からプランタジネット家と同盟していたヴェルフ家出身の皇帝オットー4世は、フランス王やローマ教皇と結んで皇帝位を狙うホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世の脅威を感じていた。また、フランドル伯はフランス王と抗争しており、自領への侵攻を受けていた。 1213年にジョンは教皇との争いを解決した後、オットー4世らと謀って、フィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てた。ジョンがフランス南部に進撃し、同時にドイツ、フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというもので、1214年に入るとジョンはギエンヌから侵攻し、ポワティエ、アンジューを回復したが、オットー4世はドイツ諸侯の動員に手間どり、進軍が遅れた。この間に、フィリップ2世は王太子ルイを南部に派遣したため、ジョンはアキテーヌに撤退してしまった。やがて7月にはいると、オットー4世、ソールズベリー伯率いるイングランド援軍、フランドル伯、ブローニュ伯、ロートリンゲン諸侯の連合軍、騎士6500、歩兵約4万がブービーヌに進撃し、フランス王軍は騎士7000、歩兵3万でこれを迎え撃った。 両軍とも両翼に騎士隊を中央に歩兵を配置し、真っ向からの激戦となった。一時はフィリップ2世も馬を失い、危うかったが、やがて、両翼のフランドル、イングランド勢が崩れ始めフランドル伯、ソールズベリー伯が捕虜となると大勢は決し、オットー4世は命からがら逃走した。取り残されたブローニュ伯も、力尽きて捕らえられた。他に100人近い騎士が捕虜となり、双方で騎士170人、歩兵数千人の死者を出した。 この戦いにより、FX が進めてきたフランスの優位は確定し、以降1世紀に渡り、ヨーロッパにおけるフランスの優位が続くことになる。一方、神聖ローマ皇帝オットー4世は皇位を失い、イングランド王ジョンは、大陸領土の回復に失敗し、本国では諸侯の反乱に屈しマグナ・カルタを認めることになる。 ワールシュタットの戦い(ワールシュタットのたたかい、de:Schlacht bei Wahlstatt)は、1241年4月9日にバトゥを総司令官としたモンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍のバイダル率いる分隊と、シロンスク公ヘンリク2世(シュレージエン公ハインリヒ)、ドイツ騎士団をはじめとするポーランド・ドイツなど周辺の諸侯連合軍が激突した戦いである。リーグニッツの戦い de:Schlacht von Liegnitz 、レグニツァの戦い pl: Bitwa pod Legnic? ともいう。 シレジア地方のヴロツワフの西部、現在ポーランド領となっている町レグニツァ(ドイツ語名リーグニッツ)近郊で行われた。戦いの名は、現在レグニツキェ・ポレと呼ばれている戦場の村のドイツ語名ワールシュタット(ヴァールシュタット)にちなむ。ポーランド軍の戦死者の数は極めて多く(このため、ワールシュタット=死体の山(谷?)と訳される)、モンゴル軍の総司令官バトゥは「地獄の王」と呼ばれて恐れられたという。ちなみにワールシュタットはポーランドのシロンスク地方にあり、現在ではリグニッツに近い。こうしたことから、ワールシュタットの戦いの別称としてリーグニッツの戦いともいわれるようになった。 モンゴル帝国の第2代皇帝オゴデイは1235年のクリルタイで諸国への遠征を日経225 した。モンゴル高原を出立したジョチ家の当主バトゥを総司令とする諸王家の王族たちと諸侯からなる大規模な遠征軍は、キプチャク草原やキエフ大公国をはじめとするルーシ諸国を征服した。1241年3月12日にバトゥ率いる遠征軍本軍はハンガリー王国をカルパティア山脈の東部から北部に掛けて諸方面から侵攻して、バトゥの本軍はティサ川流域のモヒー平原の戦いで国王ベーラ4世を敗走させていたが、このハンガリー王国への侵攻に併せて、バトゥはポーランド方面への支軍のひとつを侵攻させていた。 ワールシュタットの戦い。左がモンゴル軍、右がポーランド・チュートン騎士団連合軍(14世紀に書かれた聖人伝『シレジアの聖ヘドウィッヒen:Hedwig of Andechsの伝説』より)ポーランドの年代記 Polonicae Historiae Corpus などによると、このモンゴル軍をペタ Peta なる人物が指揮していたと述べているが、『世界征服者の歴史』や『集史』などモンゴル帝国側の記録から推測してハンガリーに駐留していたバトゥ本人ではなく、遠征軍に参加していた王族のひとりでチャガタイの六男バイダル(Baidar)のことだと考えられている。この「ペタ」の部隊の一部は前年にポーランド領内に侵入し、ルブリン一帯が劫掠された。1241年に入り、モンゴル軍は凍結したヴィスワ川を渡り、サンドミェシュを掠奪したが、その年の四旬節のはじまる2月13日頃に多数の捕虜と戦利品とともに一時軍を退いたという。