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アクティウムの海戦(アクティウムのかいせん、ラテン語:Actiaca pugna)とは、紀元前31年9月にオクタウィアヌス支持派とプトレマイオス朝及びマルクス・アントニウス支持派連合軍の間で行われた海戦である。海戦の名は戦場がイオニア海のアクティウム(現ギリシャ共和国プンタ Punta)沖であったことによる。 セクストゥス・ポンペイウスが処刑され、第二回三頭政治の立役者の1人で、最高神祇官でもあったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが失脚したことにより、ローマの政争はアントニウスとオクタウィアヌスの対立へと移った。オクタウィアヌスの姉オクタウィアと離別し、ローマとは疎遠になっていたアントニウスはプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラ7世と結び、東方専制君主の立場でオクタウィアヌスに挑もうとした。それに対しオクタウィアヌスは紀元前32年アントニウスに宣戦、アントニウスもこれに応じた。 アントニウスは総司令部をペロポンネソス半島沿岸のパトラに置き、艦隊をアンブラキア湾(en)へと集結。一方でマルクス・ウィプサニウス・アグリッパはアンブラキア湾内を封鎖、アントニウス軍の動きを封じ込めると共に補給路の遮断を狙った。翌年の前31年9月2日、アクティウム岬沖で両軍が500隻以上の艦船を投じて決戦が行われた。 兵員の数ではアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていたが、両軍が少し交戦した時点でクレオパトラの艦隊が戦線を離脱し、アントニウスはこれを追って撤退したため、指揮官を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなって潰走、オクタウィアヌスの勝利となった。 アクティウム海戦の敗北によって、アントニウスに味方していたユダヤ王ヘロデらも離反してオクタウィアヌス側へ転向した。アントニウスはエジプトに帰還するクレオパトラの船を追った。オクタウィアヌス軍から、部下を置き去りにし、女を追って戦場を後にしたと嘲笑されたアントニウスは、エジプトの首都アレキサンドリアへと逃亡した。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命令で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕のなかで息絶えたとされる。クレオパトラもオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。コブラに身体を噛ませての死だったと伝わっている。 オクタウィアヌスは、これにより予備校 の一世紀に終止符を打ち、地中海世界の統一も果たして、みずからはプリンケプスとして帝政への道をひらいた。 トイトブルクの戦い(羅: Clades Variana、英: Battle of the Teutoburg Forest)は、紀元9年にゲルマン系ケルスキ族の族長アルミニウスに率いられたゲルマン諸部族がローマ帝国軍を壊滅させた戦いである。トイトブルクの森の戦い、トイトブルク森の戦いとも称される。なお、ドイツではウァルスの戦い(Varusschlacht)という名称が一般的である。 ローマ軍の総司令官はプブリウス・クインクティリウス・ウァルスであった。彼は由緒正しい家柄の貴族であり、7年ゲルマニアの総督に就任した。ウァルスの軍は、3個ローマ軍団(レギオン第17軍団、レギオン第18軍団、レギオン第19軍団)と、アウクシリア(補助兵)6個大隊、同盟軍騎兵3個大隊から構成されていた。 ウァルスはこの地のゲルマン諸部族に貢ぎ物を求めるだけで、あえて征服しようとはしなかった。諸部族はウァルスのこの平和主義をうまく利用し、戦争の準備ができるまでの時間稼ぎをした。機が熟すと遠方の部族がローマ帝国に対して反乱を起こした。ゲルマン人の一部族であるケルスキ族からの援助を取り付けたウァルスは、軍を組織してこれらの部族を討伐するための軍事行動を開始した。 ローマ軍が分け入った「トイトブルクの森」は、道も細く、辺りは沼沢地であった。さらに、天候は激しい嵐となっており、行軍するローマ軍の隊形は乱れ、組織的な行動ができなくなっていた。そこに待ち伏せていたゲルマン諸部族はローマ軍に奇襲を仕掛けた。このような待ち伏せ攻撃は2、3日に渡り繰り返し行われた。それでもローマ軍は一歩も引かなかったが、雨とともに続く襲撃によって一方的に殺戮され、およそ2万人のローマ軍兵士が死亡した。 この敗北を聞いた皇帝アウグストゥスは、「ウァルスよ、我が軍団を返せ!」と叫んだといわれている。当時のローマ軍は国境線防衛上に必要な数以上の常備軍を備えておらず、ウァルスの敗北はライン方面の軍団が消滅したことを意味した。このためウァルスの軍団の後背地にあたるガリアはゲルマン人侵攻の恐怖に包まれたといわれ、アウグストゥスは暴動が起らないように戒厳令を実施した上で、各属州総督の任期を延長した[1]。 10年、ゲルマニア総督としてティベリウスが派遣され、ガリアへのゲルマン人の脅威は退けられたものの、トイトブルクでの敗北と後のゲルマニクスによるゲルマニア遠征の事実上の失敗によって、アウグストゥスの構想であったエルベ川をリーメスとする計画は頓挫した。ライン川をリーメスとし、それ以東のゲルマニアへと領土を拡大しようとする意図も失われた。なお、この境界はロマンス語とゲルマン語の分岐点となり、後にはフランスとドイツの国境ともなった。 この戦いにおけるゲルマン民族の勝利は、19世紀にドイツ塗装工事 主義の誇りとして象徴的に使われた。1875年、有志から集められた莫大な資金を投じて、この戦いを記念するヘルマン記念像(Hermannsdenkmal)がデトモルトに建てられた。ドイツ国外のドイツ人社会においても類似した像が建てられており、その一つがアメリカ、ミネソタ州のニューウルムにある。 「トイトブルク森」の場所に関する唯一の情報源は、長らくローマの歴史家タキトゥスの著作『ゲルマニア』にある「テウトブルギエンシスの隘路で」という記述のみであった。アルミニウスの記念像を建てる際にトイトブルクの森の場所をデトモルトと推測し、彫像を建てる場所として同地が選ばれた逸話がある(なお、1875年に記念像は建立)。 その後、イギリスのアマチュア考古学者トニー・クランなどの調査によって、ブラーケという都市の一地域であるカルクリーゼが実際の戦場であったことが明らかになった。より詳細に言うと、ニーダーザクセン州のオスナブリュックから北へ数十キロの場所である。ここは、彫像が建てられたデトモルトから50km程離れた場所である。 一次的な発掘は、ウォルフガング・シュリューター教授などの考古学者チームにより行われたが、その発掘の成果が明らかになるにつれて、新たな基金が創設され、更なる発掘が進められている。 エデッサの戦い(イタリア語:Battaglia di Edessa)とは、シャープール1世が率いるサーサーン朝(ペルシア)とウァレリアヌスが率いるローマ帝国軍との間で行われた戦闘である。戦いに敗れて捕虜となったウァレリアヌスがペルシアに連行されたことでも知られる。 241年にサーサーン朝(ペルシア)のシャーとなったシャープール1世は、即位当初の243年にローマ皇帝ゴルディアヌス3世の側近ガイウス・フリウス・サビニウス・アクイラ・ティメシテウス率いるローマ軍とのレサエナの戦い(en)に敗北したが、ティメシテウスが陣没した1年後の244年にMisicheの戦い(en)でローマ軍を撃破し、ゴルディアヌスを敗死に追いやった。シャープールはゴルディアヌスの後継皇帝となったピリップス・アラブスとの間でペルシアに有利な条件での和睦を結んだ。 ピリップスの在位中はペルシアとローマの間で大きな戦闘は無かったが、ウァレリアヌスが皇帝となった前後よりペルシア軍はたびたびローマ帝国領への侵攻を行い、253年にはバルバリッソスの戦い(en)でローマ軍に勝利を収めて、ドゥラ・エウロポス(en)やアンティオキアを占領した。 256年にローマはペルシア軍をアンティオキアなどの占領地より追い出したが、更にペルシアへの報復を果たすためにウァレリアヌスは親衛隊を含むローマ軍約7万を率いて、ペルシア方面へと親征した。 ローマ軍とペルシア軍はカルラエ(現:ハッラーン)やエデッサ(en、現:シャンルウルファ)で小規模な戦闘を繰り返したが、最終的にペルシア軍がローマ軍を撃破して、ウァレリアヌスはペルシア軍の捕虜となったと伝わっている。 5世紀後半のおせち は、ウァレリアヌスはペルシアとの和平交渉の最中に騙されて捕虜となったとし、ラクタンティウスは、シャープールが騎乗する際にウァレリアヌスを踏み台として辱めたとそれぞれ伝えている。ただし、18世紀の歴史家エドワード・ギボンは英邁な君主であったシャープールが自らの威厳を失墜させかねないこれらの行為をするとは考え難いと記している。なお、ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像にはウァレリアヌスが騎乗するシャープールへ降伏する場面を描いた壁画が残されている。 ペルシアへ連行されるウァレリアヌス(ハンス・ホルバイン画)なお、エデッサの戦いで約7万のローマ将兵の多くが戦死または捕虜となったこともあり、戦いの全貌については不明な点が多い。いずれにせよ、ごく僅かの死傷者に留まったペルシア軍の大勝であったことは間違いが無い。 シャープールは捕虜としたウァレリアヌスと一部のローマ軍をビシャプール(en)へと送り、同地で良い待遇での生活を行わせた。スーサに建造された「Band-e Kaisar」(皇帝のダム)と称されたダムへローマの技術が用いられたように、シャープールはローマの工学と技術力をペルシアへと取り入れた。 なお、エデッサの戦いの1年後の260年にウァレリアヌスはペルシアにて死去、共同皇帝の地位にあったガリエヌスが単独のローマ皇帝となったが、西方属州ではマルクス・カッシアヌス・ラティニウス・ポストゥムスらによってガリア帝国を分離独立し、東方属州ではプラエフェクトゥス・プラエトリオ(親衛隊長官)バッリスタの支持を得たフルウィウス・マクリアヌス(en)らが皇帝を僭称したように、ギボンが30人僭帝時代と称する大混乱にローマ帝国は陥った。 シャープールはエデッサでの勝利の余勢を駆ってローマ領への侵攻を図ったが、パルミラを中心とした一帯を治める実力者セプティミウス・オダエナトゥスの軍勢に敗北。ペルシアの西方への進撃が押し留められたのと同時に、その後のパルミラ王国の成立に繋がることとなった。 エデッサの戦いの結末は、外敵との戦争で始めてローマ皇帝(デキウス)が戦死したアブリットゥスの戦いと共に、ローマ帝国の国力の低下を物語る事件となった。一方のペルシアにとってもアウレリアヌスやマルクス・アウレリウス・カルス、ディオクレティアヌスら後代のローマ皇帝からの侵攻を招き寄せる格好の材料ともなった。