SPECULATION
上記の数字は全て『ガリア戦記』に基づいているが、現代の歴史家は、おそらくアレシアのガリア軍が20,000から30,000、解囲軍は50,000から70,000、つまりローマ軍とほぼ同等であろうと考察している。 ウェルキンゲトリクスの降伏は、実質的に全ガリアにおける抵抗の終焉を意味した。その後も抵抗を続ける部族もいたが、カエサルによって平定され、紀元前51年には全ての部族がローマの支配下に置かれた。ガリアはローマの属州となり、ガリア・ルグドゥネンシス、ガリア・ベルギカ、ガリア・アクィタニアの3つの管区へ分割された。 カエサルはガリア征服の成功により、ガリアのパトロネジとなり、そこから得られる莫大な資金・人材・資源を元に自らの立場を強化した。莫大な富と名声を手に入れた(とは言え、地中海沿岸に比べて未開地が多いため、のちのグナエウス・ポンペイウスらとの内戦の時には財力などで後手を取っていた)。元老院は特別のはからいとして、通常は5日間までと定められていた凱旋式を20日間開くことを許可したが、カエサルはこれを断った。 ウェルキンゲトリクスは、6年間の捕虜生活の後、内乱に勝利したカエサルがローマで行った凱旋式の後に処刑された。19世紀、自由主義とナショナリズムの盛り上がりにつれて、ウェルキンゲトリクスはガリア(フランス)の自由と独立を求めた英雄として評価されるようになった。同様にアンビオリクスはベルギーの英雄として評価されるようになった。 アレシアの位置は長年にわたって疑問の的だった。候補地としてはフランシュ=コンテのアレーズ(Alaise)、コート=ドールのアリーズ=サント=レーヌ(Alise-Sainte-Reine)の2ヶ所が上げられていた。 1860年代、フランス皇帝ナポレオン3世は、この問題を解決するための発掘資金を提供し、調査の結果、アリーズ=サント=レーヌでローマ軍の野営地跡を発見した。ナポレオン3世は、発掘された台座の上にウェルキンゲトリクスの彫像を築いた。2004年に航空考古学の調査によって、包囲線の痕跡と思われるものが発見され、アリーズ=サント=レーヌこそアレシアであると結論付けられた。現在、同地にはアレシア包囲線を復元した建物が築かれている。 しかしながら、アリーズ=サント=レーヌはアレシアではないとする声も依然として存在する。周辺の地形がガリア戦記の記述と食い違うこと、80,000人を収容するには狭すぎること、などが主な反論である。もっとも、上記のようにカエサルの記述とはいえ全幅の信頼を置くことはできない。 他の転職サイト としては、ジュラ山脈のショウ・ド・クロテネー(Chaux-des-Crotenay)も、ガリア戦記の記述に近い地形であるとされているが、未だ発掘調査も進んでいない。 ムンダの戦い(むんだのたたかい、伊:Battaglia di Munda)は、紀元前45年3月17日にヒスパニアのムンダ(現:オスーナ)で行われたガイウス・ユリウス・カエサル派と元老院派(ポンペイウス派)との戦いである。 紀元前46年春より、ローマ属州ヒスパニア・ウルステリオルに於いてイレルダの戦いでカエサル軍に敗れた元老院派のベテラン兵士を中心として形成された軍勢が、小ポンペイウス(グナエウス・ポンペイウスの息子)を担いで蜂起することを宣言し、カエサルが任命したヒスパニアの各属州総督を追放して元老院派がヒスパニアを実効支配した。 また、タプススの戦いでカエサル軍に敗北した元老院派の残党もヒスパニアの元老院派の軍に加わると共に、同じく北アフリカから逃れた小ポンペイウスやセクストゥス・ポンペイウス、プブリウス・アッティウス・ウァルス及びガリア戦争でカエサルの腹心であったティトゥス・ラビエヌスも合流した。元老院派は、3つのローマ軍団(2つは従来からあるベテラン中心の軍、1つはヒスパニアに住むローマ市民から構成された軍)に加えて、ローマ市民権を持たないヒスパニア人やガリア人等から構成された軍勢を組織して、属州都であったコルドバを始めとしてローマ人居留地も含むヒスパニアの殆どへ勢力を伸ばした[1]。 ヒスパニアをカエサルより任されたクィントゥス・ファビウス・マクシムス(Quintus Fabius Maximus)とクィントゥス・ペディウス(en:Quintus Pedius)は、元老院派が勢力を増すことに無力であり、カエサルに支援を要請した。 紀元前46年11月、カエサルは元老院派を討伐する為にローマを発って、カエサルが信頼を置く第10軍団エクェストリスや第5軍団アラウダエ、新しく組織された第3軍団ガッリカや第6軍団フェッラタ等のローマ軍を率いて(軍団兵の中にはヒスパニアで採用した現地人も多かったとされる)、紀元前46年12月にヒスパニアへ到着した。なお、この時にカエサルの甥に当るオクタウィアヌス(後のローマ皇帝アウグストゥス)がカエサル軍に帯同する予定であったが、オクタウィアヌスの体調が優れなかったこともあり叶わなかった。 カエサル軍の突然のヒスパニア上陸を利用した形で、カエサルは、ウリピア(Ulipia)を攻撃していた小ポンペイウスの軍を排除したものの、セクストゥスが守備するコルドバを陥落させることは出来なかった[2]。ラビエヌスの助言で小ポンペイウスは野戦を避けると決めた為、カエサルは兵糧を求めると共に陣営地を築いた。その後、カエサル軍はAteguaを攻囲戦の末に陥落させたが、これによってポンペイウス軍への信用と軍の士気に大きな打撃を与え、ポンペイウス軍に加わった現地兵が看護師 求人 を離れたり、元老院派のローマ軍団兵の中にはカエサル軍への帰順を計画する者もいた。この為、ポンペイウス軍は持久戦を放棄して、カエサルとの会戦を決意せざるを得なかった。 カエサル軍とポンペイウス軍はムンダ(現:オスーナ)の平野で向い合い、元老院派(ポンペイウス軍)はムンダ市の防壁から程近い防御の容易ななだらかな丘に陣を敷いた。 軍勢はカエサル軍が8軍団、騎兵8,000人、ポンペイウス軍は13軍団、6,000人の軽歩兵、騎兵6,000人であった。 ポンペイウス軍の多くは過去の戦いで一度カエサル軍に降伏していた。そのためカエサルが再び許すことはないと恐れており(実際にカエサルはそのような捕虜を処刑していた)、死力を尽くして戦いに挑んだ。 戦闘開始から暫くは両軍共に優劣がはっきりとせず、拮抗した激しい戦闘であった(後にカエサル自身も「何度も勝利の為に戦ってきたが、ムンダでは自分の命を守る為に戦わざるを得なかった」と語るほどであった)。また、戦闘中にカエサルは「私をあんな小僧に捕虜として引き渡して恥ずかしくないのか!」と兵士に向かい叫んだと伝わっている[3]。 カエサルは第10軍団が配置された監視カメラ を指揮し、第10軍団はポンペイウス軍を押し込んでいった。小ポンペイウスは劣勢に立たされた自軍の左翼を強化するためにデータ復旧 が受け持っていた右翼部隊の一部を左翼へと派遣したが、ポンペイウス軍の右翼が手薄になったことを見て取ったカエサル軍の騎兵部隊及びカエサルと同盟を結んでいたボッグス2世率いるマウレタニア騎兵は攻撃進路を変更して、ポンペイウス軍の後背から攻撃を加えた。 ポンペイウス軍の騎兵を指揮するラビエヌスは、カエサル軍騎兵部隊の動きを阻止する為、戦線を移動しようとしたものの、ポンペイウス軍の兵士が、第10軍団が攻撃する左翼と騎兵部隊が攻撃する右翼が劣勢に立たされておりラビエヌス隊が退却に移ったと誤解したことをきっかけに、ポンペイウス軍は戦線が全面的に崩壊・敗走した。 カエサル軍はポンペイウス軍の敗走兵を追討して、ポンペイウス軍は約30,000人が戦死し、ラビエヌスも戦場で討死した(その後、かつての盟友の遺体と対面したカエサルは埋葬を許可したという)。一方のカエサル軍は戦死者1,000人、負傷者500人であった。 カエサルは、なおも抵抗するムンダに対する包囲戦の指揮官としてファビウスを残し、自身はヒスパニア平定に向かった。コルドバは降伏して殆どが武装した元奴隷からなる市内の兵士は全員が処刑され、コルドバは巨額の賠償金を課された。ムンダは暫く持ち堪えたものの、14,000人の奴隷を供出して降伏した。 小ポンペイウスは逃亡中にカエサル軍に捕捉されて処刑され、プブリウス・アッティウス・ウァルス(Publius Attius Varus)は戦死した。セクストゥスは大西洋岸まで落ち延びていったものの、カエサルの権力に抗しうるだけの軍勢はもはや持たなかった。ムンダの戦いでの勝利を以て、ローマ内戦は事実上終了、カエサルはムンダ戦勝の凱旋式をローマ市で挙行した。なお、この凱旋式でカエサルはマルクス・アントニウスと同じ車に乗り、その後ろにデキムス・ユニウス・ブルートゥスとオクタウィアヌスが随伴した[4]。